カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

苦しさから目をそらしてはならない

2014-08-16 | 

 もういつの間にかだいぶ長い間ダイエットしていて、そうして中断したり再開したりも間にあって、上手くいったり残念だったりをやはり繰り返している。そうではあるけど、あんまり会わない人にはやはりそれなりに変化はわかってもらえるらしく、そう言って頂けると励みになる。悪意があるのか無いのか分からないけど、横でいやいやそんなこと無いでしょうと僕の変わりぐあいを否定してくれる人もたまにあって悲しい思いもするが、それは単に日頃会う人にはあんまり変化が認められない程度ということでもあるのであろう。
 ダイエット話題になるとその方法ということにおのずとなるが、僕の場合減らせるときに食うのを減らすだけ(後は体重計に乗るだけだから)のことだから、事実を話してもなんだか残念がられるだけのことが多い。そうだよね、と相槌を打ってくれる人は良い人だと思うが、そういう人は本当に限られた人間に過ぎない。まあ、ダイエットというのはそういうものなのだろう。
 さらに食べ物をどう減らすということについては盛り上がる場合があるが、しかし朝食や昼食を抜くということになると、とたんに反感をあらわにする人もいる。夜を抜くというのは比較的反感が少ないのが変なところだけれど、それでも時間を決めての三食しっかり信者という存在があることは確かで、健康面でそうおっしゃるのはごもっともらしい匂いはするけれど、そもそも太るのが不健康なのだという前提に立つと、多少生命が脅かされるくらいの過激さは容認されるべきなのではないかと思ったりする。まあ、思うがあんまり反論しても、信者の人は聞く耳を持たない。三食しっかり食べる方がちゃんと減る理論というのがあるらしくて、統計的にもそうであるらしいし、絶対的な事実としての体験というものもあるらしい。とにかくそうおっしゃる方の口調は厳しく、結局三食食べて痩せなさいの一点張りなのである。まあ、なかにはもっと回数を増やして食う代わりに一回の分量を減らす論というのも根強くあるが、まあ、これはめんどくさいので例外と致します。食う機会が増えるとトータルでは増える方が自然なので、むしろハードルを上げて無理をしているに過ぎないから、マゾ度が上がって苦しいだけだ。
 でもまあいくらそういわれたところで、ダイエットして体重を減らそうと思うと、やはり食べない以外に実際には方法が無い。そんなことをしなくても減る人はそもそも食ってないか記憶喪失か病気を疑うべきであって、太るような人間が体重を減らすというのはこれまでどおり食べていては同じような結果にしかならないわけだから、食べたからにはそれ以上に食べないことを選択せざるを得ない。事実というのは重く厳しいのだ。
 そんなわけで久しぶりに兄に会う機会があって、しかしその見事な痩せぶりに驚いたのだ。身長は僕とそんなに違わないが、体重差は7キロ以上あるようだ(一時期はもっと落ちていたが、ちょっと戻ってしまったらしい)。もちろん同じように太っていた時代を知っているので、その衝撃度は大きい。実際にトータルでは十数キロは落ちたのだろう。
 で、どうしたのかと一応聞いてみると、夜中に空腹で目覚めるくらいはやったという結論だった。苦しくてヒャアー(だったっけ?)っと言うくらいじゃないと痩せたりはしないという。確かにそうだよな。僕には苦しさが足りないよな。だからさ、今があるのは。と思ったことでした。苦しくてもう太れない、というくらい自分のマゾを蘇らせることができるかどうか。短期と長期の折り合いをつけながら、もう少し頑張ってみます。
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負けた側の戦争の教訓こそ抑止力だ

2014-08-15 | 境界線

 よく分からんが、というか、ごく自然かもしれないが、盆にはご先祖をお迎えするという家族の祭典ということとは別に、戦争の事を考える期間ともなる。先の戦争が終わったのがこの時期であるらしいということと関係があるというのがあるが、まあ、マスコミの刷り込みがあるということもあるように思う。僕はずっと子供だったから気づかなかっただけのことで、今はそんなことを感じるというだけのことかもしれないが…。
 終戦記念日という言葉はある。実際はそうでもあるし…。しかしこれすらそれでいいのか、という問題だってある。終戦なのか敗戦なのかというのは考えてみると大きい。戦後の、いや、現在の日本の国際的な立ち位置を考えると、敗戦とすべきことの方が多いが、しかし、国内的な行事感覚では、終戦という言葉であとを濁す方が主流ではあるのだろう。もうどうだっていい、という乱暴な意見もあるが、それは時間のなせる無頓着だろう。
 そういう複雑さというのは、ある方が良いのか悪いのか。そんなものに答えなんてありえないが、あえて言うことが許されるならば、これは特権的にある問題だということなんだろうと思う。良いとか悪いとか原理主義的に断罪するのは、きわめて幼いだけの事だ。これを内包しながら、苦悩しながら生きること。選択すらできなくて、渦中の人として宿命的に考えること。それこそが本当に大切なことなのではないか。まったく当事者でなく、無邪気に批判できる人。そういう野蛮な側に、決して立つことは無い。そういうことが、僕らが生きている本当の意味があるのだろう。
 日本人というものに、少しでも価値があるというのであれば、間違いなく負けたからこそ考える民族であるということになるように思う。勝ったものには分からない、心から希求する平和という姿。それが人類にとって価値のあることは、戦争を知らない人には分からないことなのだ。たとえ知らない僕らのような世代がほとんどになろうとも、感覚的にわかるのは、敗戦があっての事なのだろう。終戦という言葉から見えなくなっているものこそ、本来的に取り戻すべき感覚があるように思えてならない。
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大衆が力を持てば血が流れる   フランス革命・歴史における劇薬

2014-08-14 | 読書

フランス革命・歴史における劇薬/遅塚忠躬著(岩波ジュニア新書)

 フランス革命については良く知らなかった。というか、市民革命で王朝が没落して共和国になったんだろう、くらいの認識しかなかった。そういう面もあるけれど、しかしもっと激しく痛みの伴うものだったということのようだ。確かに革命でギロチンにかけられた人がそれなりにいるらしいことは知らないではなかったが、それはもうすさまじい人々が殺されてしまったようだ。文中これは劇薬だったという表現がなされているが、人間の情熱がおりなす感情の噴出は、血で血を洗うすさまじいものだったということだ。最終的にはナポレオンの軍事クーデターでおさまるわけで、結局何の平和裏に済んだ物語ではない。終始あくまで血生臭く、強烈な激情の革命だったのだ。
 民主的な国家の礎になったことは事実だが、結局は力による権力闘争でもあった。民衆が隆起してさまざまな暴動めいたことがあったわけだが、キーになっているのはいつもブルジョアだった。要するに金を持った勢力がどこに加担するかということで、力のバランスも揺れ動いた。ブルジョアは貴族になりたがったこともあったのだが、貴族はブルジョアを恐れた。さらにブルジョアは民衆をも恐れてはいたが、結局彼らを利用するよりなかったのかもしれない。結果的に長きに渡って政治的には混乱し、多くの勢力の裏切りもあり、多くの人々は粛清された。その痛みはあまりに大きく、最終的に手にした自由の代償はあまりにも大きかったといわねばならない。それでも今となっては必要だったとも捉えられるのは、そのままの社会でよかったわけが無いという考えからであろう。現代になってやっとその痛みの部分の反省も語られるようになっているようだけれど、それでも人々の情熱というものが如何に恐ろしいものであるのかということは、忘れられがちという気もする。あえてこのように検証する書物が、読まれる必要があるということだろう。
 面白いというか現代的にも少し考えさせられるのは、その頃にも多少の制限はあるにせよ、選挙は行われていたということだ。さらに革命前の選挙では、投票率が著しく低かったということだ。政治的な機運が高まって革命に至ったのではなく、大衆は政治的には無関心になり、政治と切り離されたところで生活の不満を爆発させたようなのだ。現代の日本がそのまま当てはまるとは考えにくいが、現代社会においても投票率は下がる一方で、しかしデモなどの行動は先鋭化しつつあるように見える。政治と民衆の視点が著しく乖離していくと、不満というものを解消する術がなくなってしまうのではないか。結局は革命というのは、無法者の自由に暴れる状態が頻発するもののようだ。統制が取れなくなる人間がなにをするかというのが、劇薬の一面なのではなかろうか。政治的手段で改革を行わない行為は、血を流さざるを得ないということのようにも思える。日本の社会運動においてもそれはある意味で似ている部分もあり、大変に示唆的である。現代の政治的無関心がどこに進むのか、やはり注意は必要なのかもしれない。
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夢のなかの信用の出来ない自分

2014-08-13 | 雑記

 夢を見ていて、「ああ、これは夢だな」と思うことがある。そう思うとたいてい目覚めるので(もっとも目覚めたから夢だったと記憶できたということもあるのだが)、覚醒した同時期に夢を夢と判断したのかもしれないとは思う。しかしあくまで夢の流れとして、これは夢の中にいるのだろうということを思う。考えてみると夢でなければおかしいというような論理的な判断なのではない。自分が夢の中にいるな、という居心地の悪さに気付いてしまうというのがあるようなのだ。たまにそういうことをわかりながら、夢の中でそのまま自分を演じているということもあるにはある。まだ目覚めなくてもいいから、もう少し付き合うか、ということかもしれない。しかし、じきに夢は目覚めとともに終焉する。内容がなんだったのはよく覚えていないのに、夢と気付いた自分の居心地の悪さのようなものはなんとなく後を引くように覚えている。変なものだな、という感覚だけが後に残るような…。
 逆にまた、変な立場に居るくせに、何でまた夢だと気付かないのか、と時々不思議に思う。明らかに違った立場だったり(この間は、僕は魚になっていた)、時間がばらばらだったり、妙にSFチック(空を飛んでいたり)していても、夢の中だと気付いていない。目覚めて、そりゃ夢だもんな、とあきれ果てる。でも、夢のなかの自分はそんなことはまったく気付く気配すらない。夢世界を安易に信じて、そうしてそのなかで、踊らされ苦しめられる(時には楽しいが…)。夢の中の自分が、なぜああまで幼稚なのか。まあ、現実の自分も十分に幼稚だという声も聞こえそうだが、それでもそういう自分が本当に信じられない。自分自身である居心地の悪さを、夢というのは思い出させてくれるという感じなのかもしれない。
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分かりやすい価値観に苦しむ人々   ヤングアダルト

2014-08-12 | 映画

ヤングアダルト/ジェイソン・ライトマン監督

 以前から無かったわけではないが、このようなコメディというのは、比較的近年になって広く理解されるようになっているのではないか。人間の心の弱さだったり、一番ふれてほしくない暗部というか、そういうものをあえて表にさらけ出すことを映像世界で行う。日本映画では低予算というのもあるが、こういうのは実にたくさん生み出されているので馴染み深い訳だが、さすがに見栄を張ってダブルスタンダートを使い分ける西洋人には、なかなかこれが出来ていなかった。本音と建前が一応無いことになっている社会では、これがあることを認めたくないというのがあったのだろう。勇気の要ることだし、自分の暗部に誰にも触れてほしくない。理解できたり認めたりすることで、また自分自身も見つめなおさなければならない。酷い人だと非難するのは簡単だが、わずかでも共感が無い人間には、このお話はなかなか難しいものになってしまうのではなかろうか。
 しかしながら、実際にはシリアスでもなんでもない。お話もそんなに難しいものではない。むしろ痛さが際立つように、実に単純にこの世界を描き出しているように思う。ものすごく勘違いしていることに気付いていないことが不思議に思えるくらい、むしろ病的に思えるくらい、主人公は奇行を繰り返している。もちろん廻りにもそれはバレている。いろいろあるが、やはり主人公はいまだに美しく、そうして注目を集め続けていられるくらい派手な存在なのだ。地元に帰ってくること自体が信じられないくらいニュースになる。両親だって、そういう噂で娘の動向を知るくらいなんだから。
 そういう特殊な人間が特殊な感慨にとらわれて、しかし現実の自分に苦しみ、そういう自分を打開する術を過去に求めたわけだ。今となっては過去のスター性のほうが、自分にとっても大切な輝きに見えたということなんだろう。このあたりはよく分からない感覚だけれど、このような特殊な人というのは少数だろうし、とは思うが、しかし高校くらいの輝ける日々に再び戻りたいというような話は時折聞いたりすることもあって、分かる人には分かる仕組みかもしれない。
 日本にだってヤンキーといわれる人たちは居る。今ではマイルドヤンキーというのだったか。映画の中の人だと少し違うが、むしろ地元に残り、子育てをしながら妻がバンドをやっているような人間は、やはり日本のマイルドヤンキー文化圏と通じるものがあるように思う。都会に出た組は、そのまま都会で結婚し生活を続けているだろう。やはり共通するのは、以前よりそのような都会移住への人へのまなざしが、それほど憧れでもないということくらいだろう。地元に残れるのは、それはそれでラッキーなことだったし、ゆるいけれどそこそこ感がある生活を壊してまで背伸びをする必要も無い。
 しかしながらそのこと自体が、主人公をイライラさせる要素であったことも間違いが無い。結果的に一時の迷いであったことを確認する物語になってしまっているが、その代償も大きい。人々というのは自分の立ち居地が揺らぐことが一番怖いのだ。自分の信じている価値観は相対的にしか確認できない。そうしてその確認に必要なのは、自分よりしあわせな人より、より虐げられて這い上がれない下位の人々なのだ。
 かなり残酷で過激なことだけれど、そこまで描いているからこそ、この映画は作り物ながら妙なリアリティがあるのだろう。本音と建前を上手く使い分けることに長けている西洋人が素直になると、いろいろと問題が起こる。建前社会を強固にすることが、結果的に心の安定につながる。薄っぺらい価値観にすがって生きている人間にとっては、そういうことこそが何より大切な精神的な糧なのであろう。
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めがねを替えた

2014-08-11 | 掲示板

 めがねを新しくした。だいたい2,3年に一度交換するという感じ。理由としてレンズに傷がつく。視力が変わる→主に落ちる。近年は老眼が進む。単純に壊れる。などがある。他には肩がこるとか、人にいわれる、などもある。ミーハーなところはある僕だが、あんがいめがねは保守的。というか、自分はめがねをかけているので自分の姿はよく分からない。出来れば似合っているに越したことは無いが、なに、似合って無くても自分にはどうせ分からないのだからかまわないという気はする。するが、これが無いと困るので少しは真剣だ。ほとんど体の一部だからね。
 ところで今回は久しぶりに全部フレームがある。いや、フレームがあるめがねの方が歴代では多かったはずなんだけど、最近は全部覆ってないというか、そういうのが多かった。三十台の前半なんかは縁なしというのをかけていたこともある。レンズが厚くなって重たくなったというのがあったようだが、今はだいぶ薄くなった。技術的なものなんだろうね。
 やはり視力が落ちていてさらに老眼が進んでいて、乱視も無視できないともいわれて全面的にやりかえる感じになった。確かに遠くは少し見えるようになったように思うが、まだ良く慣れていない。遠近両用ということで、足元が少し違和感を覚える。さらに本を読むときに文字を追いづらい。正直よく見えない感じもする。早く疲れる。いつか慣れるだろうとは思うのだが、なんとなく吐き気がするような気分にもなる。少しずつだけれど以前より本を読みづらくはなっていたので、そういうものなのかもしれないが…。
 また肩が凝りやすくなったようにも思う。液晶の文字も場合によっては見えづらい。通勤で建物のセキュリティの関係で勝手口は暗証番号を入力する仕組みになっているのだが、時間帯で光の当たり方では、僕にはまったく見えない。諦めて建物の中の人に電話するか、後から来た人を待っている。朝は忙しいから電話するのは躊躇がある。少しくらい待てば僕以外の通勤者がある。結局選択は待つことが多くなる。せっかく早く出勤するが、玄関先で新聞や本でも読んで時間をつぶしたりしている。目が不自由というのはそういうことで、体が衰えるとはそういうことだ。諦めるよりないから精神的には悠長になるというのはあるかもしれないが、もう後は死ぬだけだな、という感じもするので少し寂しい。人生というのは短いものであります。


追伸:結局なんとなく具合の悪いのが続いたので、レンズの度数は変更することにしました。生活上、遠くを見るより近辺の方が重要ということで再度交換待ちです。
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夏は着替えよう

2014-08-10 | 散歩

 ごく最近まで昼休みに散歩するのを日課にしていた。過去形なのは、今はしていないから。厳密に言うと、とても無理。理由は暑すぎるから。
 日本の夏が暑いのは、いにしえの時代からそうなのだが、この高温多湿な気候において、日中、特に昼の一時期外に出るだけでも大変な思いをする。うだるような暑さという表現もあるし、しかし外出している人もいるわけだが、それはすなわちお気の毒という感じかもしれない。たまにビジネスマンがこの状態なのに黒いスーツを着ているのを見ることがあるが、ほとんど狂人にしか見えない。そういう人と取引するのは危ないのではないか。
 それでも休日などになると運動している人などがいる。かなりクレイジーだけど、あれは楽しんでいるのだろうか。高校生などが部活をしているが、あれも虐待と捉えられかねない。それじゃあ何にも出来ないというのはあるし、仕方ないのだろうけれど(事実僕などはそうしてきたわけだけど)、今の自分の立ち位置からすると、ほぼ狂人の域に見えることは間違いが無い。人間が狂っているのか季節が狂っているのか問題はあるが、夏が暑いのは正常である。温暖化の話もあるが、寒冷化の恐れもあるという。もう暑いのに面倒なことは聞こえないよ。それにすべて手遅れであることだけが分かっている。どうしようもないことを暑い中で考えることはつらい。
 暑いが家にいると杏月ちゃんは散歩をねだる。ちょっと無理だよ、と説得してもなかなか納得してくれるものではない。それで夕方になってやっと外にでることになると、夕方といってもアスファルトなどはまだまだ熱い。最初は勢いがいいけれど、選択している道にもよるが、すぐに杏月ちゃんもバテて来る。上目遣いに暑さを訴えているのはわかる。時々座り込んで首廻りを執拗に掻いたりしている。しまいには抱っこしろとせっつく。抱っこしても暑いので可哀想になるが、しかしそういうときには既に家から一番遠い場所だったりする。木陰を探して休憩できればいいが、先日もうっかり木の下にもぐりこんだら蜂の巣があって慌てて逃げて汗が吹き出て大変だった。蜂だって暑いから涼しい木陰を巣に選んだのかもしれない。まったく共生の難しい生き物である。
 しかしながらこう暑いと、恐らく体力も消耗しているという感じがある。春も眠いし秋も眠いし冬も布団が恋しいが、実は夏が一番寝ていたい。寝苦しいというのがあっても、眠たいは夏という気がする。時々ほとんど意識を失うようにうたた寝をしてしまう。だから早起きしたら運動より本を読んだりの活動を優先したくなる。暑いなら日中だって集中が途切れがちだ。ますます散歩の習慣が遠のいてしまう。
 着替えを準備してエイヤっと外にでる。汗をかくが、着替えることが分かっていると、これがあんがい不快でないことがある。ダラダラ流れて逆に壮快ということがある。後で飲むだろうビールも素晴らしい。長時間は危険がありそうだけれど、そういう具合の準備しだいでだいぶ違いそうだ。Tシャツとパンツをたくさん買って、着替えを前提に生活を組み立てるべきかもしれない。荷物は増えるかもしれないけれど、夏を乗り切るにはこれしかなさそうである。
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恐ろしい自分の自覚を

2014-08-09 | net & 社会

 チキンナゲット事件は確かにショッキングだったが、企業が叩かれだすと、大衆というのは容赦がない。具体的に暴動をしないとか略奪をしないとかいうけど、ネットの炎上というのは、基本的に同じ精神構造だろう。
 まあ、その前からネット上では度々話題の上がることだが、特に俎上にあがる話題に、マックのポテトが腐らない、というのがある。比較検証の写真つき(または動画の場合もある)で、廻りの(他社など)ポテトは黒く腐っていくのに対して、マックのポテトだけはいつまでも腐らず残るというものだ。ハンバーガーだって腐らないらしい。衝撃、というか、こんなものを食わされて、大変だ!ということらしい。毒を飲んだらどうなるかというのは量が問題で…、というのはもうめんどくさいので止めるが、要するにマックを食べたことがある多くの人に、気持ち悪くなってもらいたい目的があるようだ。
 こういうのは情報の非対称性というのがあって、安全かどうかなんて検証は専門家が厳密にやらないことには、なかなか素人には分かりづらいというのがまずあるだろう。ジャーナリズムが時々事実の検証に失敗するのは、あるバイアスで物事を見ようと最初から問題のみをクローズアップしすぎてしまうことにあるようだ。さらにこのような事実らしい写真つきのものを見せられると、最初の驚きから思考がストップしてしまうことになるものらしい。これが詐欺のテクニックでもあるが、すぐにそのものが偽モノだなんて検証が出来ないわけで(何しろ実験には準備や時間がかかる)、驚かせる目的だけならこれだけで十分だ。さらにネットだと勝手に驚いた人が拡散してくれる。元ネタがどこかにもぐり込んでも、それこそ素人が探し出せるものではなかろう。
 いやそれでも私は実験して実際に見た、という人もでてくる。身近に居たら問いただすことも出来るが、小保方さんの例でも分かるとおり、本人がそうだといっても簡単にそれが本当かは、やはりまた別の第三者が証明するよりないだろう。そんなことをやはりわざわざ素人が、何でやらなければならないのか。結局事実なんて本当には、簡単に分かりえないものなのだ。
 それでもやっぱりネット上には、これを実際に検証してみようという人が必ず出てくる。ちゃんとググればなんでもないことだが、数が少なくて埋もれている場合も多くて、簡単に探し出せないという難点はあるようだ。しかしながらやはり検証してみると、マックのポテトが腐らないということはない。まあ、当たり前だろうが、検証した人は本当にえらいと思う。別にマックの回し者ではなく、立ち止まって物事を見ることができる人もいるということだ。
 そのようなことは簡単に埋もれやすいし、確かにそんなにショッキングでもないし、場合によっては面白くないことかもしれない。びっくりした人が悪いとは思わないが、一緒に拡散するようなことはせずに、一度驚いた自分を良く考えてみることも必要ではないか。マックの魅力が何なのかは僕には良く知らないことだけれど、そういうマックを選択した自分のことを考えてみてもいいのではないか。結局は一時の勢いを失ったものが、その輝きを失いかけているように見える。そういう落ち目のものが叩かれるのを、面白がってみているということはないだろうか。これがいじめの本質のようなもので、立場が変わるといじめる人間を憎んでいた自分も居たはずなのだ。驚くべきは、そういう自分の人間性の方だ。人間の性質というのは、本来的に恐ろしいものなのだ。
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あえてマイナスが必要   土の中の子供

2014-08-08 | 読書

土の中の子供/中村文則著(新潮文庫)

 感覚的にはよく分からない話なのだが、それは確かに自分自身がしあわせすぎた所為なのだろうか。そこのあたりはたぶんそこまで異常経験が無い所為だとは確かに言えそうだけれど、このような危うさは、思春期の一時期には少しばかりはあったような気もしないではない。微妙な問題ということは感じられるが、しかし既にかなり病的で、恐らくそして実際に病気の領域に達しており、共感するまでにそれなりに話が進んでいかない限り、難しいということになるかもしれない。もちろんそういう筆者の力量に任せていると、なんとなく到達しそうになるわけだが、次から次へと重大な事件に巻き込まれている感じがあって、いくらそういうことを欲している人間であっても、事件に巻き込まれすぎだろうという感覚が芽生えて、少し冷めてしまう自分が居た。ひとつの事件だけでも大事であって、ちょっとゴタゴタしたかな、とも思うわけだ。特にそれだけのことがあったら、やはり普通は命が事切れる。そうして次のステップを踏むまで、やはり時間がかかりすぎるということになりそうなのだ。さらに勝手に関わってくる複数の人間が、もっと自分を放してはくれないだろう。行政というのはそういうものだし、日本の社会とはそういうものという気がする。事件が起こるということは、そういうことになってしまうのではなかろうか。
 しかし、やはり心的描写が中心で、現実に起こったことは、かえってリアリティが無いということはあるかもしれない。現実というのはちょっと病んだ人には強すぎるということがあるのかもしれない。人間の考えの、空想のような世界の方が、遥かに重層的で複雑だ。そういうものを現実が壊しかねないということはある。主人公たちはそういうことに十分恐れを抱きすぎており、そうしてそういう自分から逃れられない。元はといえば、自分の意思とは関係なしに、強引に巻き込まれて病んでしまったわけだが、ある程度自分なりにもがいてみても、あちこちにトラップが仕掛けられていて、そうして安易に自分がそのトラップに引っかかってしまう。自分の周りの病的な人間からしか、自分の自発的な行動が生まれなくなっている。関係性を作れない人間同士だからこそ、もっと難しい人間関係が、なんとなく生まれている。救いといえばそのことの一点のみで、社会と戦うことが可能になるということなのかもしれない。普通の人間に必要そうな、始まりの人間関係を失った人間にとって、マイナス過ぎるスタートこそが、希望になっているということなんだろう。
 すさまじい物語だが、そうして悲しすぎる物語だが、あえて希望の物語に読み取ろうとする。そのようなせっかちなものではないのだろうけれど、そうしなければ読者としては耐えられない。そういう印象を残した人間心理物語だった。
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パチンコに用は無くなったけれど…

2014-08-07 | 雑記

 ぱったり行かなくなった場所にパチンコ店がある。用がなくなったからだけど、本当に知らない世界になってしまった。友人関係も変わったし、暇ではないというのはある。興味も何もない。時々ニュースで幼児などが車の中で死んだと報じられているときに意識する程度で、車の移動などで目にすることはあっても、ほとんどその存在に気を回すことはなくなっているように思う。
 パチンコをしなくなっても、時に寄る事も無いではなかった。急にトイレに行きたくなった場合などに利用するということがあったからだ。公園などの公共のものより綺麗だし、人がそれなりに多いというのが、出入りに気にならないということもある。まさに急に、というときには大変にありがたい思いもした。もちろんお礼のつもりでジュースくらいは買って飲んだりする。そのようなときに店内を見るともなしに眺めたりするが、それで衝動的にやってみるか、という気分になったりもしない。以前はそれなりに入り浸るような生活もあったわけで、本当に不思議な感慨というべきかもしれない。
 僕は世の中にあるものは、ひとまず肯定する現実主義者だから、パチンコ批判があるのは知っているが、たいてい的外れという気がしている。ギャンブルであるのは間違いないが、ギャンブルがなぜ悪いのかは正直言ってよく分からない。以前は北の資金源ということもあって、そういう面は良くないとは思っていたが、しかし商売でイカサマをしているわけでもないのなら、それはそれで仕方あるまい。現在の状況はほぼ日本でそれなりにまじめに淘汰された大手が強くなっているらしいとは聞いている。それで健全なのかは分からないけど、既に一種の文化になっているのは間違いなかろう。
 実はさらに、パチンコがあるから良い面というのはけっこうあるんじゃないかとも思っている。悪い面をことさら荒立てていう人には不健全な人が多すぎるので聞きたくないというのはあるが、それによって誤解している人が増えてしまうのは、ちょっと残念ではないかと思う。
 たとえば生活保護の人がパチンコをしている批判というのがある。そのままの文面からいってほめられたものではないとは素直に思うし、中には本当にたちの悪いスジの人がいることも間違いなかろう。しかしながらそうであっても、僕はパチンコをすることはあんまり抵抗を感じない。パチンコをすることで、一定の息抜きのようなことが出来ているのであれば、それはそれでいいのではないか。実際に生活保護を受けている人の実態をみると、実にさまざまであるのはそうで、本当に働けない状態の人のほうが圧倒的に多数である。まあ、給付について議論があってもいいとは思うし、審査の仕方についても問題はあるのだろう。しかし生活保護で何とか貧困を食い止められている人がいるのも事実で、日本の憲法で守るべき基本精神からいって、国民保障として必要なものだろう。堂々とパチンコが良いというのは褒められないけれど、生活の中でパチンコに寄ることもあるというのは、そこまで極悪な行為と思えないだけのことかもしれない。
 また、震災などで避難生活を余儀なくされている状態に多くの人々が苦しんでいるようなときに、実際にふとそのような娯楽で救われたというような話を聞いたことがあるのである。つらいときに我慢が必要なのは理解はされている。自分だけのことではないし、皆で頑張っていこうと歯を食いしばる生活をするのは大変なことだ。ある一定時期はそうやって何とか頑張っていられるそうだが、時々ふとそのようなところにふらりと入って、ああやっぱり楽しかったなと思って、また避難生活に戻って元気になったという話だった。もちろん業界のネタのようなことに使われると問題がありそうだけれど、そういうものは、妙にリアルな人間味を感じる。実際に人間とはそういうもので、最初は生活必需品だけでもありがたく、何とか耐え忍ぶ励ましにもなるものなのだが、同時に品行方正も求められるような空気が漂い、少し窮屈に思うようなこともあるらしい。そういうときにちょっとお酒が入ったり、タバコを分けてもらったりというようなことがあると、心の中の別の部分がほぐれるということがあるのではないか。パチンコという娯楽というのは、個人差もあるが、そのような役割もあるのではないか。
 まあ、堂々と擁護されるようなものではないからこそ、人々の心の救いになるようなものというのはあるという話である。社会悪というのは、文字通りの悪の権化だけの存在ではない。そういうことに気付いているのが、本来の大人の役割ではないのだろうか。
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大人は分かってくれない   バンデッドQ

2014-08-06 | 映画

バンデッドQ/テリー・ギリアム監督

 児童映画とはなんだろう。児童文学は分かるが、映画となると分からなくなる場合がある。アニメのポケモンなんかだと、そうかもな、とは思う。が、あれは児童という感じとは厳密には違う。ディズニーは子供向けもあるが、大人のヤンキーでも大丈夫という感じはある。もちろん普通の人でもいいけど…。さらにほとんどは家族映画というか、デート映画なんかでもありそうだ。子供のみより範囲が広くて商売になるのかもしれない。さてしかしこの映画だが、恐らく子供向けに作られているが、なんともいえない英国くさい大人の毒が含まれていて、こんなものを魅せられる子供に害がないわけがないと思う。しかし大人にはそんなに面白くないから、やはり子供向けなのだろうか。いや、やはり文化的に毒の作用の仕方が違うということになるんだろう。
 夢のある映画のように見せかけて、実は人間の欲望渦巻く変な世界。そうして、恐らく日本の親社会なら、できるだけ遠ざけて見せないようにしているような暗部。子供としても平気で元の親のところに帰りたくないというような科白を吐く、この感覚。ふざけすぎていて気持ちの悪い演出。起承転結のはっきりしないスラップスティック・ギャグ。観ていて古いというのもあるし、間延びして唖然とするようなものもある。酒タバコありで、善悪もあいまい。マニアには受けるというのは分からないではないが、ちょっと考えすぎていて、しかし行き届かない一方通行感が漂う居心地の悪さ。だからこそ素晴らしいテリー・ギリアム映像世界なのだが、まあ、それに尽きるということですかね。
 しかしながら僕はそれなりにこういう感じに賛成する気分はある。もともと子供というのは残酷なものだし不条理なものだし邪悪なものだという気もする。純粋さがすなわち悪と親和性の高いものであるのと同じことで、大人がその純粋さを失って勘違いしているだけのことで、子供というのは汚かったりずるかったり恐ろしかったりすることの方が自然というだけのことなのではないか。むしろそういうことを忘れていない邪悪な映像を作る才能があるからこそ、このような世界で生きていける才能があるということも出来る。児童文学などの作者も同じで、大人としては変だからこそ子供にウケる感性を持ち続けていられるのだろう。
 というわけで既に大人になった人には難解な変な映画だからいいということのようでした。
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貧乏はかっこいいか   沈黙のサラリーマン

2014-08-05 | 読書

沈黙のサラリーマン/マイクル・Z・リューイン著(ハヤカワ文庫)

 日本の私立探偵はどんな仕事をしているのだろう。主に米国のこのような作品を読んでいると時々そう思う。基本的に浮気調査とか家柄の調査なんかをしているらしいということは聞いたことがあるが、僕の日常とはかなり遠い。恐らく刑事事件とは関係が無く、しかし個人では少し面倒というか、とにかく人手が必要で、ちょっとした秘密めいたものを調べてもらうということになるのだろうか。
 さっそく脱線するが、以前人探しをする必要があって、その方面に相談した方がいいのではないか、という話が出た。人づてに人探しの専門のような人(自称)がやってきて、金を持って逃げたような人なら、ヤクザ関係が確実ですよ、と教えてくれた。彼らのネットワークは、警察とは違った素晴らしさがあるらしい。もっとも探してはくれるが、その持ち出した金が、捜索料として相殺されるシステムだという。回収方法は見つけたヤクザみたいな人たちがするから心配ない、ということだった。つまり懲罰的なことを請け負うわけで、金は諦めてくれ、ということらしい。面白いお話だとは思ったが、もちろん依頼しなかった。何しろお金を持ち逃げした人を探していたわけでもなかったし…。
 さて、主人公のサムスンさんは、客の依頼が少なくて、困窮している。調査料の割引の広告を出して客引きをするが、それを見ずに依頼に来た人間に、妙な調査を依頼されるに至り、値引きをし、さらに高いといちゃもんをつけられ、結局半分しか払ってもらえない。やっと調査をつないで依頼人の橋渡しに成功するが、結局その依頼人からも事情があって料金の回収が出来なくなる。途中に事務所は荒らされて金は盗まれるし、支払いに困るばかりか、事務所も立ち退かねばならない運命だ。基本的に貧乏物語のようなことになってしまったが、そういう悲哀が、ハードボイルド的な側面であることは間違いがない。
 勝手に妄想を膨らまして精神的な窮地に陥っているし、聞き出そうとすることに強引にことを運びすぎて乱暴な口を利いたりする。人も殴るが、酷く殴る蹴るの暴行を受け、監禁された上に殺されそうになる。捜査のためとはいえ不法侵入して、目的のものは何とか見つけるものの、結局捕まるという頓馬なことになる。何故か拳銃を持たない主義らしく、逃げ出す術は無い。警察には追われているし、妻からは逃げられているし、10年ぶりくらいに会いに来た娘にも気付かない。なんだかこの人本当に大丈夫なんだろうか、ということなんだが、とにかくそれでもかっこいいという不思議な物語なのであった。
 まあともかく僕はそんなに間違ったことを書いているわけではないが、これを読んだ人なら分かってもらえるだろう。ハードボイルドとはつまりその文体というか描き方であって、このような事実がならんで描写されているけれど、なかなか渋くてカッコいいのがサムスンさんの物語であるという結論に至るのである。まったく面白いことである。
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犯罪社会のリアル 掏スリ模

2014-08-04 | 読書

掏スリ模/中村文則著(河出文庫)

 向井万起男が読んでびっくりしたと書いていて、どれ、どんなもんか、と思って読んでみて、確かにびっくりした。向井氏が書いている通りで、日本人でもこんな作品が書けるんだというような感じと、さらに日本語の巧みさというか、なんと言うか、作り事の話だけれど、妙にリアルな質感がある文体で、陳腐ですまないが、凄いと思うわけだ。よく考えてみるとこのような世界観というのは空想でしかありえないと現実家の僕は思うのだけれど、だからこそ小説的で、しかし妙にリアルなのだ。なんだか繰り返してるだけだな。動揺してるのかな。まあ、いいか。
 スリが快感なのかは僕には分からないし、そのための実験をする勇気もない。そういう世界の個人の実感といってしまえばそうだが、しかしこのスリリングな感じの緊張感が頻繁に起こる。人間が生きているというのは、たとえそれが操り人形(的なことが小説の中で起こるのだが)のように生かされているという理屈を超えて、個人的に実感するかどうかだ。重層的に立場が変わってそういうことを考えてしまう。底辺にいる人々が、表の世界の人にもつながって影響を与えている。普段は関係ない人々が、実はその犯罪による一瞬の接点で、大きく誰かの日常に関与する。すられてしまった後の姿は描かれていないが、恐らく長い時間をかけてさまざまな苦痛を強いられたに違いない。一瞬で狙われただけの、さらにその場に居合わせただけのことで、ちょっとした歯車が完全に狂わされてしまう。恐ろしいことだが、そういうことに頓着しないで、犯罪は日常的に繰り返される。それは空気を吸うような当たり前でありながら、しかし特殊で異常なことなのにである。
 単なる犯罪小説ではない。濃淡はあるが、恋愛や友情や、擬似的な親子の情愛のようなものも描かれている。かなり異常だか、しかしそれは大変に人間的だ。このような道の外れ方に、なんだか本当に人間的なリアルさを感じさせられる。暖かい人間くさい人間愛ではない。成り行きのように暴力的で、しかし相手の感情を痛いほど理解している。倫理的にはこんな教育でいいはずはないが、間違いなく真剣に相手にすがり、そして信用できるのは、お互いの背景にある底辺の世界観と、そうして生活のための犯罪なのだ。
 もちろん娯楽として読んでも裏切られないだろう。長編とはいえ短い話だから一気に読んでしまうだろう。そうして身を任せて放り出されてなにを思うか。あとでじわじわ来る感慨にふけるのも、小説を読む楽しみかもしれない。
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愛と仕事

2014-08-03 | なんでもランキング

 次の項目の中であなたにとっての優先度をつけて下さい。という問題があった。以下に順番をつけて欲しいらしい。

家族 友人 恋人 仕事 お金 名声 自由な時間

 なんとなく回答する前に悩んだ。家族のある人で恋人の項目のあるのは、妻帯者にとってはまずいのではないか。しかし、さらによく考えてみると、これは独身者である場合だと、そういう選択のあることが分かる。
 しかし独身者や学生や若い人で、仕事や名声があると、いろいろ困る場合があるのではないか。選択できないかもしれない。となると、やはり既婚者でも対象にしているとは考えられる。
 もちろんこのことに答えなどはなく、どのように考えて順位をつけるかに意味があるらしい。しかしその前に問題として適当なのか疑問が浮んで、上手く考えることが出来なかった。
 精神科医で有名なフロイトは、「人生に必要なのは、愛と仕事」といったらしい。僕もその通りと思っております。もちろん、仕事は収入から切り離れても通じるし、愛は対象者がいろいろ違っても通用する。実に素晴らしい真理ではあるまいか、と思うわけです。
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毛の比較

2014-08-02 | 掲示板
 実は少し前のことだけど、杏月ちゃんがカットをした。



 実に可愛い。素晴らしい。

 で、以前はどんなだったか、と比較せねば。





 でもこれも可愛いです。



 もう少し前はどうだったか。






 もっと前は。






 で、実際に毛が長い感じはこれかも。



 単に写真をUPしたいだけのことですね。



 もう少しずつだけど伸びてきだしていて、ちょっときりが無いな、という感じはある。まあ人間だって伸びるわけで、一緒ではあるんだけど…。

 そういえば人間だと毛が早く伸びるのはスケベだからというわけの分からん俗説があるが、犬の場合はどうなんだろう。そもそも毛を定期的にカットするかどうかは犬種にもよるわけで、比較が難しい。まあ、どうでもいい問題に過ぎないわけですがね。どの道ほんとにスケベかどうか分かっても、どうしたいかよく分からんし…。
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