カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

イチゴ大福

2008-03-06 | 
 賞味期限切れのイチゴ大福を食った。もともと足の速いお菓子らしく、三日前にいただいていたのを忘れていたら昨日が期限だったようだ。どうしようか、と皆に相談したら、「大丈夫」が多数にのぼり、自己責任とやらで食うことになった。
 配分は一人二個ずつ。僕の一個目はなんともない。まあ、こんな味かなというぐらいしかイチゴ大福の味を知らないので感覚的に新鮮だった。ワリにいけるという印象。一人ふたりと食いだして、途中で声が上がるようになる。吐き出すひと約二名。十数人のうち、ちょっとおかしいと感じたものが約半数。
ここで少し議論になった。
 まったく大丈夫な人がいるのだから、吐き出すほどのひとは神経質すぎるのではないか。イチゴ大福はもともと少しばかりツーンとくるような味である。粒ごとにあたりはずれがあって、きてる大福と大丈夫なものとがあるのではないか。冬だから腐るはずがない。大福の原料に使われているイチゴには特殊な味付けがしてある。等々。
 聞きながら僕は二個目に突入。あ、確かに今度は少しばかりツーンと来る。舌先にピリリと来るような刺激も残る。明らかに一個目とはきてる具合が違う。
僕なりにいえることは、多少は悪くなっている可能性はあるな、という感じである。
 さて、ここで食うのを止めたのは、先ほど吐き出した二名のみ。後の人はどんどん二個目を食べだした。また、それなりに声が上がるが、楽しそうに食っている。食うのを止めた人の分までいただく人も出現。後で聞いた話だが、もう一箱発見されて、五個も六個も食う人がいたらしい。悪くなってるって何の話? という感じだろうか。
 結論として数時間後にはっきりするのではないかということになった。少なくとも殺虫剤が入っているような味ではなかったし。
僕自身は翌日少しごろごろするような気がしたが、イチゴ大福が犯人かどうかまでは確信をもてなかった。もともと胃腸は弱いので、同じといえば変わらないことなのかもしれないのであった。自己責任ってなかなか愉快なものだな、と思った。
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医者、用水路を拓く

2008-03-05 | 読書
医者、用水路を拓く/中村哲著(石風社)
 人間には上も下もないというのは差別に関していえることで、実際には上等の人間と下衆な人間はちゃんといる。これは事実として当たり前の話だと思う。しかしながら偉くあって欲しい地位に、本当に偉いのだが疑問のある人が多くなっているのではないか。その所為かことの現実に比例して、素直に尊敬できる大人が減ってしまったように思えてならないのは残念なことである。損得だけで右往左往してしまうのは時には仕方がないことだとは思うが、それだけではやはり決定的に悲しすぎる。本当は少しばかりでも偉いことをやってのけたいという考えがないではないが、それすら気恥ずかしくいいにくい世の中になっているように思う。ましてや、やったとしてもまともに評価する土壌がなくなっているのではないか。どこかで結局は損だから止めたらどうだ、という声が聞こえてきそうである。
 そういう日本社会であっても、たまには本当に偉い人が現れる。それがこの著者である。いまどきアフガニスタンくんだりまで行って何をしている。誰も見向きもしないときに堂々と行動で示している。そのものすごい記録がこの本である。僕は半分呆れながらも、すっかり感動してしまった。理屈じゃない。現実を動かすというのは、このような正義があって初めて実現できることなのだ。本当に恐れ入った。
 日頃報道で聞いているタリバンという武装勢力のことを、僕らはどれほど知っているというのだろう。僕自身も正直に告白すると、この本を読むまでは極悪非道な政治武装集団だとばかり思っていた。今でもほんのちょっとは思っているぐらいで、すっかり洗脳されていたことに気付いていなかった。いや、この本だって嘘をついている可能性はまったくないとは言えないが、そういう政治勢力であっても、米国をはじめとする相対的関係性において存在しているわけで、どちらかの方角からだけで見ているかぎり、本当のタリバンというものはいつまでも分からないままだろう。ましてやアフガニスタンの現実生活など、微塵も分からないままだ。
 著者はアフガニスタンに医療奉仕に行くだけでなく、その医療を施す前段階の水の確保の事業に乗り出す。本来なら国家プロジェクトといっていいものを、全部手探りで地道に取り組んでいく。自分の息子が病気なって死のうとも、また戦地のアフガンに舞い戻って行く。時には自らパワーショベルを駆って作業をする。現代の土木技術では金がかかりすぎるので、地元福岡の江戸時代の治水事業を勉強しなおし、試行錯誤を重ねて事業を遂行していく。使命感というか責任感というか、これはいったいなんなのだ。偉いだけでなく、なんという爽快感だろう。次から次に逆境に阻まれ、命の危険にさらされようとも決してあきらめない。時には同士にさえ厳しく、形だけの慈善事業に真っ向から反対する。自分の満足のためにやっているのではない。現地の人たちの今と将来のことを考えて、本当に第一に真剣になって取り組むのである。
 偉い人間を偉いといって何が悪い。人間は何かをなすために生まれてきたのかもしれない。そういう大志を思い出させてくれる偉大な事業を、多くの人に知ってもらいたいものである。
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医療崩壊

2008-03-04 | 読書
医療崩壊/小松秀樹著(朝日新聞社)
 K村君も紹介していたので読んでみた。基本的には医療の現場の立場からの意見書である。印象として少し左よりの思想もあるように思えたが、医療で独立主義でない立場というのは多かれ少なかれそういうものなのかもしれない。フィルターははずして意見に耳を傾けるべきだろう。
 医療にかかる人は病気や怪我などで困っているひとなのだが、治療をすれば必ず直るという保障はどこにもない。もちろんそれは程度ということでもあるが、医療に求められているのは、まるで魔法のような要求であるようだ。しかしながら医療行為というものは最終的には100%敗北するのだとか。何故なら人間には寿命があって、いつかは必ず死んでしまう。まあ、それはそうであるが、確かにいわれなければそう思っていないかもしれない。
 医療訴訟の問題はそういう基本的なものを捉えきれていない。だから患者が重篤な状態でとられた処置に微妙な問題が絡んだ時に、過失という観点で犯罪を摘発してしまう。もともと難しい状態であった患者を何とか助けようとしてやったことが仇になって多額の損害賠償を請求されてしまう。病院は怖がって担当していた医者や看護師などのスタッフを簡単に切ってしまう(処分して知らんぷり)。責任問題から逃げてしまうのだ。そうなれば怖くて誰も難しい処置はしなくなってしまう。挙句の果てには現場から逃げて開業する。こんなところでいつまでもやってらんないよ、という気分なのかもしれない。まったくの悪循環ということであるようだ。
 実際に最近感じることは、行政関係の総合病院がなかなか手術をしてくれなくなった。あるときは麻酔科の人間がいないので、もともとそういうことはできないのだとか言われた。噂には聞いていたが本当だとは…。違う病院は家族の住まいと距離があるので不安だというので、結局手術を断念したということもあった。僕らは第三者なので、当事者がそうやってあきらめてしまうと手を出せない。不安を抱えたままこちら側も受け入れざるを得ないわけで、なんともやりきれない気分だ。
 英国は既に医療が崩壊して久しいらしく、現場は凄まじい状態になっているという。サッチャー時代に医療費の削減の制度を熱心にやった結果である。基本的には日本もそのような方向なのだろうか。これを読むまで知らなかったが、医師会の構造的な問題もあって、開業医と勤務医の格差が広がっているということもいえるのかもしれない。政治的に意見が通らないために、大病院の方が経営が難しい。単価設定が開業病院の方が高いのである。その結果、勤務医は開業医より勤務時間が長い上に所得が低く抑えられてしまうようだ。これでは構造的に救急医療などは必然として崩壊の道を歩んでいるように見える。この本自体は読むことを勧めたいが、戦慄してしまって精神衛生上は良くないかもしれない。
 この本は医療現場の問題点を洗い出しているのだが、はたしてこれは医療現場のみにいえる問題点なのだろうか。これを読みながら考えさせられたのは、検察やマスコミなどの世論の要求は、もちろん医療現場のみに向けられた限定的なものではないということである。世間的な現在の事件も、多くは世論のこのような考え方が蔓延した結果が多いような気がしないではない。
 例えば多くの事件においては、結果責任ばかり追及して現実の改善策を先延ばしにしすぎている。本当に難しい問題を何とかすることの方がはるかに重要なのに、現場のたまたまその場に居合わせたものの責任だけ追及して正義を唱えても、むなしいだけではないだろうか。確かに管理者・責任者という立場には結果責任というものはある。しかし辞めることが責任であるというは、無責任の助長ではないのか。そこだけを過大に取り上げてあげつらうことが、本当に大切なことなのだろうか。辞任などという責任の取り方だけを要求することは、相手を逃がしているだけのことである。事故が起こったときにたまたまその地位にいただけの人が一番重い責任を負うという考え方には、もともと問題の本質とズレがありすぎる。事件や事故を受けてどのようにシステムを改善したかを評価の基準にすべきであるが、結局その判断ができないので責任を追及しているほうも問題の本質から逃げているに過ぎないのである。みんな逃げて新たに問題が起こる。雪崩的な崩壊である。

 著者の文章は歯切れも良く、文中になかなか示唆的な言葉がたくさんあって、その分たくさん線を引いてしまった。読了後再度線を引いた箇所を読み返す習慣があるのだが、それだけでもずいぶん時間がかかってしまう。それだけ得ることの多い本だった。
 患者は純粋に患者であって、健康を求めることは消費者行動ではない。ということや、政治家は無理な約束をせず現実をどうするかに集中すべきだとか。もともと倫理観を持っている日本が無批判にグローバリズムを受け入れることが愚かしいと批判している。医療の技術をマニュアル化せよと要求するのは、サッカーのロナウドにシュートの決め方をマニュアル化しろというここと等しいというのには、思わず笑ってしまった。この本をネタに監事講評がいくらでも出来そうで、もっと早く読んでおくのだったと後悔したのであった。
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ビンゴ

2008-03-03 | 雑記
 たくさんの犬が集まる会に顔を出した。兄の犬の仲間達の集まりなんである。犬の集まりなので、まさにいろんな犬が思い思いに走り回っておりなかなか壮観である。
 僕は犬種には詳しい方ではないので、なんだか知らない犬も多くて、あれはなんだろう、とぼんやり眺めるよりなかった。中にはごついやつもいて、時々猛々しく「ワン」と吠えておっかない。むやみに手を出せない。いや、たぶん大丈夫なんだろうということは分かるような感じだが、それを担保できるような自信のある仲間に溶け込める前の段階なのである。時々飼い主が呼びかけるのでどの犬が誰のであるかなんとなく判るようにはなるようだが、すぐに勝手に駆け出してしまうので混乱してなかなかきっかけをつかめない。お宅のワンちゃんはどうこれなどというような展開でもってお知り合いになるのが常道であろうことは容易に想像できるが、それがなかなか実行できないのであった。犬種も飼い主も分からんという状態は、結局街中の人ごみにそのまま放り込まれたものとたいして変わらないのかもしれない。
 我が家の愛犬小琳ちゃんと杏月ちゃんは、犬との関係を築くことには慣れていないようで、たんにうろついて逃げ惑っている。特に杏月ちゃんは大勢の人間達の方にむしろ関心があるようで、いろんな人の足に絡み付いて確認している。小琳ちゃんは何もかもに無関心。無軌道にうろついて恐らく何も考えていない。
 そうこうしているうちにバーベキューになるようで、そういやおいら飯食ってきたばっかだよ、ということでこれもきっかけがつかめない。車で来たので酒もない。まあ、そのうち何とかなるだろうとは思うが、次男坊もいるので、彼の間ももちそうもない。際限なく犬はうろついているので杏月ちゃんや小琳ちゃんをしょっちゅう見失う。立ち居地の難しいものよのう、といつまでも戸惑っていた。
 つれあいが実家に遊びにいっている長男を迎えに行くという段になって事件発生。車の鍵がないのであった。途中で野外だからということで車につんであるビニールシートを取りに行った折に、僕がどこかに落としたのかもしれない。キーホルダーに複数の鍵をつける構造になっていたのだが、車の鍵だけ抜け落ちたのだろうか。とにかく山の中で落ち葉だらけの場所なので、すぐにこれはどうにもならないということだけは分かった。周りの人も探してくれるが、何しろどこで落ちたものかも厳密に見当がつかない。残念だがお手上げである。
 仕方なく鍵屋さんに電話する羽目になった。こういう場合2万1千円です、とのことだが、そんなに持ち合わせてない。つれあいに聞くと5千円はあるという。僕の財布を覗くと1万6千円入っていた。何たる偶然。僕らは力なくウケて笑うのだった。
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散髪三世代

2008-03-02 | 雑記
 散髪に行く。確か年末以来である。正確に何回とか、どれぐらいの周期であるとか取り決めをしているわけではない。しかしなんとなく一年を割り切れる数字で散髪するような気がする。以前は半年とか四ヶ月に一回、それこそボウボウに伸びなければ行かなかった。それが三ヶ月に一回になり、今は大体二ヶ月に一回という感じ。だんだん地毛が少なくなっているのに、いく回数が増えるのは不思議である。
 若い頃には親から散髪代をもらって、そのまま酒を買って飲んだりしていた。切ってないから返せといわれて喧嘩になったりした。仕方がないからそのまま酔っ払って自分で切るなんて無茶をしたりして、まったく若いというのは恥かしくも嫌なものだった。二度と過去には戻りたくない。幸い戻ることなど出来ないが…。
 散髪はたいてい歩いていけるご近所の床屋である。少し前に移転してきてさらにご近所になった。子供のころはこの店の亡くなったじいさんに手動のバリカンで切ってもらった。時々痛くて(皮膚を少し切ってしまっていたのではないか)大変に苦痛だった。散髪は子供の苦行だと思っていた。それからいつのまにかおじさんに切ってもらえるようになったけれど、ちょっとばかり出世したような妙なうれしさだった。電動のバリカンは痛くないのがなにより助かる。
 いろいろあって時は流れ、今はおじさんの息子さんが刈ってくれる。弟の同級生で後輩でもある。なんとなく疎遠になっていたので、いつのまにかお互い丁寧語で話している。お互いいい大人になってしまったものよ。息子さんはあんまりバリカンは使わなくて、ほとんどハサミでチョキチョキやってくれる。これも時代というものだろうか。
 おじさんよりいいな、と思うのはあんまり話をしなくていいということである。床屋さんというのは一種の井戸端会議場で、誰がどうしたという情報交換の場となっている。両親がどうしているとか近所の誰がとかいちいち聞かれるし、逆に同級生のだれそれが帰ってきたとかどこの会社の景気がどうだのという情報も入るわけである。髪を切ってもらっている間はみんな口が暇なのだろうと思う。また、刃物を扱うのである程度の親密さがないと緊張がはしるせいではないかと僕は疑っている。いろいろ情報を共有できる間柄という関係が構築されて、安心して身を任せる事が出来るのかもしれない。
 しかし息子さんはいわゆる現代人でクールなところがあり、口数が少ない。寡黙な職人というか、黙々とハサミを動かすのが好きなのかもしれない。
 とにかくこれが助かる。僕は口数の多い人間だが、別にいつでもたくさんしゃべっていたいわけではない。散髪の間は黙祷して思索にふけったり、そのまま意識を失ったりする方がいい様な気がする。そういえば以前は大声で話しながら周りの客まで巻き込んでわかせるような客もいたものだが、今はめっきり静かになったものだ。店の方針もあろうけれど、これも時代の流れだろうか。
 散髪を終えて軽く散歩して家に帰る。手を洗うときにふと鏡を見て、初めてこんな風に髪を切ったんだと思う。散髪の間はメガネを外しているので自分がどのようになっているのか知らないのである。ちょっと違和感があるが、どうせ僕を外から見るのは殆どは僕以外の人である。外見なんて他人のためのもので僕の為ではないような気がする。そういうわけでどうでもいいが、ときどき気になるのは何故だろう。人間は煩わしい生き物だなあとつくづく思うのだった。
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名前をつけよう

2008-03-01 | 雑記
 大阪出張より帰ってきた。
 今回の研修では予算の関係なのか会場もなんとなく不便で、なおかつ長時間の研修にたえうる椅子ではなかった。体中痛くなって本当につらかった。やっと終わって居酒屋に流れ着くと、体の芯から開放感に包まれてほっとするのだった。単に体力が落ちてしまったということなのだろうか。まあ、内容として僕なりに会得したものがあって、これは仕事に活かせるとは思ったのでそれでよいのだが、将来が付随していいものであるという意味ではないのが残念である。迷走日本は相変わらず。しかし、一般の人たちの認識も、同時に甘いものがあるということも感じる。世の中変わってしまったのに、まだかじりついて離れようとしない。そうして責任は他人事にしてしまう。病理のようなものなのかもしれない。
 さて帰ってきた夜にPTA研修部会の打ち上げに参加。学校はそれぞれ違うという気安さもあってか、かえってうちとけて行くという感じ。疲れた体にはこたえたが、新しい仲間の誕生ということなのだろう。チーム名が決められ、次回の集まりの日程も決まった。こんなことってあるのである。という感じ。少し困るが、本当にいやな気分なのではない。
 ひとつの集団をちょっとばかりやる気にさせる方法がある。それは名前をつけること。その集団にふさわしい名前をつけると、集団は人格を持ち動き出す。それは個人の計画でも同じこと。受験生が志望校を大書して机に張るのは、理にかなった作戦なのだ。目標でもずばり事業名でもいい。例えばダイエットしたいなら「一割削減プロジェクト」などと大書する。計画は自動的に組まれることになるはずだ。もちろん計画に無理があると実現しないので、自己責任でお試しください。コツは細分化して実行するのみです。
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