カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌

2008-07-16 | 映画
ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌/本木克英監督
 今や家族共通の娯楽といっても限られている。子供の成長とともに楽しみも変わるのだが、幼い頃には一方的に親の方が付き合うというか、強引に合わせているにすぎない(親としては子供が喜んでいることだけで満足するということ)訳である。しかし段々と子供も成長して行ってそれなりに趣向が変わっていく。ますます理解しにくく分からなくなっていくものもあるにせよ、いくつかのものはそれほど苦痛を伴わずに付き合えるようになるものもある。そういう趣向性になってもらえると、親としてというか、大人として大変に助かるものである。まあ、この劇場用鬼太郎はかなりその中間にある気はするけれど、それに余りある魅力が作者の水木しげるにはあるわけで、おそらく原作とほとんど乖離したストーリー展開であることも納得した上で、作品として楽しめるというのはありがたいものだとも思うのである。
 確かに漫画のアニメ化されたものをさらに実写化した作品なのであるから厳密にいうと水木の意図した鬼太郎というものとは別モノという気はする。水木の描きだす怪しさというか雰囲気とはまったくの別世界だからである。しかし不思議なもので、そうではあっても鬼太郎をはじめとする妖怪たちのキャラクターには力があって、まったく別に思える設定の人物が演じているにもかかわらず、その妖怪として愛することができるような気がしないではない。別モノだが許せるというか、もっと積極的に言って、そのギャップでさえ楽しめてしまえるようなのである。前回ではそのギャップに幾分の驚きと、かすかに引っかかる違和感がぬぐえなかったといのは正直なところだったのだが、二作目となると不思議に安定感さえ感じさせられるような不思議な安堵感さえあるのであった。特にねずみ男や砂かけババアなどは、かなり完成度の高いキャラクターなのだと思った。正直言って現代の風景には到底合わない人物なのに、鬼太郎の風景として背景に馴染んでしまう。オールセットの中で映像が展開されるわけではないのに(まあ、それに近い感じではあるけれど)漫画の人物がまちを闊歩してチンドン屋にならないというのは、まったくおかしなものである。ドラえもんならこうはならないのではないか。
 まあしかし、アラを探すとそれなりにあるのだけれど、子供も喜んでいたようだし近くに座っていた若いカップル(彼らはどういう気分でデートにこの映画を選択したのだろう)にもそれなりにウケていた。お話はそういう訳で特にたいしたものではないにしろ、変な普遍性のあるものだなあと感心はしたのだった。はい、正直に僕も楽しめた。僕はひねくれ者だから鼻につくメッセージには感心しなかったけれど、変なところで踊りだしたり、図書館に行くのにボウリングをしたりという不条理が大変に良かったと思った。お化け屋敷などに妖怪図書館のようなものがあるのなら、ぜひ行ってみたいものである。
 また、佐野史郎や京極夏彦のような水木シンパの人たちや、最近の有名人が過剰なメーキャップで(恐らく)楽しみながら演じているというのも好感がもてた。荒俣宏や呉智英先生などが出演してくれるともっといいし、水木さんのご家族(娘さんとか)や近所の果物屋さんなんかが出ても面白いのではないかと個人的には思う。アニメにはない最大の楽しさというのは、そういう裏話のような設定なのかもしれない。できることなら墓場鬼太郎のような、もっとダークなものになってくれると、さらにさらに僕は楽しめるのではあるが…。
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