水死/大江健三郎著(講談社)
作家である長江は、幼いころに亡くなった父親のことを小説にしようとしている。数年前に母も亡くなっており、母が持っていた父親に関する手紙などがしまい込んであるトランクを、受け渡されることになったからである。母は夫のことを小説に書くことを嫌がっていた様子で、しかし長江にとっては重要なテーマで、なんども父が大水の日に短艇にのって水死した情景が夢に出たりして、頭から離れない。四国の故郷のまちにやって来て、演劇をするグループとのかかわりあいの中で、障害のある息子と共に生活を送りながら、執筆を試みる。自分の年齢のこともあるし、おそらく最後になるだろう水死小説を書き上げようと、トランクの中身の資料を読み込んでいくのだったが……。
まあ、それなりに長い話で、さらに複雑な人間関係の絡みがあって、作家の内面の話なのか、父の死んだ当時の日本の事とか、現代の教育の中にある思想の話であるとか、ごちゃ混ぜになって物語はつづく。誰の話なのかはそれなりに分かりはするものの、誰がどのように語っているのかは、なんだかよく分からないような状態になったりする。大江の独特の文体があって、あえてわざとわかりにくく書いていることは分かる。いわゆる読みにくい悪文ばかりが続いていて、この作家は文章が下手なのかもしれないが、故意に下手に書いていることは間違いが無くて、読む方はたいてい困惑する。そういう仕掛けがあることはあるので、後半になるとそれなりにどんでん返しのようなことがやっぱり起こって、なるほどそれでもわからないものはあるにせよ、大江作品の集大成なのかもしれないな、と思わせられる。
要するに、自伝的な私小説とも言えて、しかし創作もそれなり混じっているはずで、そうして幻想もあるのだろう。それが小説であるのかもしれず、妙なものを読まされているのは間違いないものの、そうして同時に妙な感動のような事にもなる。こういう作家は、やっぱりあんまり居ないのかもしれないとは思うので、ノーベル賞を取ったからというよりも、こういうものが作品として残るのかもしれない。
読むのにそれなり苦労を強いられるので、お勧めとはいえないのだけど、まあ、暇ならこういう読書体験も良いのかもしれない。なんだかんだ言ってしばらくこれを読み続けている自分がいて、その没入感のようなものに酔っていた。大江が読まれるその理由は、そういう事にあるのであろう。