会議の前にタバコを吸っている同業者の雑談に加わって話を聞く。金融危機には参りましたなあ、政局も先行きが見えませんなあ、などというような話題。米国は立ち直るんでしょうかねえ、というところで、米国どころか我が身が大変ですという人がいた。「確かに」という一同の同調する空気の中、「何しろ銀行株中心に三千万もっていかれましたよ」だって。なんとなくその場が動揺し、ちょっとレベルの違う危機意識であるのかもしれないと思った次第。おんなじ土俵で戦っているわけではないのだろうなあ。
金持ちが金を使わないという話は聞いたことがある。溜め込むことの方が楽しくて、とても使っていられないのだとか。まあ、金が溜まりだすシステムの上に立つと、使う速度より溜まる速度の方が上回るのかもしれない。しかし冷静になって考えてみると、金を持たない人間よりも金を消費する速度が遅いのかというとそんなことはないはずであるし、金持ちの多い社会が消費が活発であることのほうが真実味があるようにも思う。ただ、そういう一定の金持ち層というものが、相対的に拡大するのかという問題はある。
円高になると輸出企業に打撃がでて、日本が不況に陥るという話がある。しかし問題となっている原材料は安く手に入ることになるわけだし、国民の購買力という意味で考えるなら、全体的なメリットの方が大きくなるのではないか。だいたい日本製品が安いから輸出が強いと考えるのはなんとなく無理があるようにも思う。安いから売れているのは中国製品などであろう。
まあしかし購買能力が高まっても、買えるものが中国製ばかりになるということになれば、そのまま意欲が高まるのかということも言える。また、浪費がいいことであるというのは、やはり倫理的に問題があるのも確かだ。良い物を堅実にわかる目で購入する能力が高まるのであれば、それは理想的な向上であるようにも思う。まあ、そのために勉強を重ねるという意味で間違った出費を重ねるという経験も必要なのかもしれなく、そういう質を判断することは事実上不可能かもしれない。
米国は大変であるということは理解できても、火傷をしなかった人間が何を学んだかということの重みとしては違いがあるのかもしれない。日本は棚から牡丹餅的に米国発バーゲンの恩恵を受けそうだ。そのまま素材を生かせるかどうかという問題はあるにせよ、ちょっとした地図の塗り替えは進んでいくことだろう。後は政治なんだけど、もう何もかも遅いので、これはどうでもいいのかもしれない。