●シャンカラ
六派哲学の哲学者たちの中で、随一の存在がシャンカラである。シャンカラは700~750年頃のバラモンで、ヴェーダーンタ学派の巨頭であり、インド最大の哲学者といわれる。
◆不二一元論
シャンカラの思想は、不二一元論(ふにいちげんろん、アドヴァイタ)と呼ばれる。
不二一元論は、ブラフマンのみが実在するという説である。不二と呼ぶのは、ブラフマンだけが唯一で不二の実在であると説くことによる。
仏教では、4世紀に唯識説が発達した。ヒンドゥー教にはない極めて精緻な理論であり、ヴェーダーンタ学派は次第にその影響を受け、一切の現象は識の顕現と解釈するようになった。仏教は実体を否定するが、ヴェーダーンタ学派はブラフマンの実在を認める。また、前者はアートマンを否定するが、後者はアートマンをブラフマンと同一とする。そのため、この違いを踏まえた理論的な総合が必要になった。その総合を成し遂げ、唯識派的な世界幻影論を採り入れつつ、『ウパニシャッド』の梵我一如の思想を徹底したのが、シャンカラである。それゆえ、シャンカラの不二一元論は、世界幻影論的ブラフマン一元論と言い換えることができる。
シャンカラについて、『ウパニシャッド』の思想に仏教的要素を取り入れ、『ウパニシャッド』を仏教化したと見る者は、彼を「仮面の仏教徒」と呼ぶ。逆に、彼は仏教化していたヴェーダーンタ哲学を純化したと見る者は、正統派最高の哲学者と仰ぐ。
シャンカラの先駆者に、7世紀後半の哲学者ガウダパーダがいる。クシティ・モーハン・セーンによると、ガウダパーダは厳密な一元論者で、外界は幻影であり、ブラフマンのみが唯一の実在であるとした。また外的対象は純粋に主観的であり、夢は覚醒時の経験とほとんど異ならず、世界は巨大な幻覚で、ブラフマン以外にはなにものも存在しないと説いた。一方、シャンカラは、ブラフマンとアートマンの同一を主張し、最高実在以外の世界の存在を否定しながらも、世界を純粋な幻影とするガウダパーダの説は認めなかった。覚醒時の経験は、夢の中とは異なり、外的対象は単なる個人意識の産物ではないとした。それゆえ、シャンカラの世界幻影論は、世界は幻影ではあるが、個人個人の迷妄ではなく、集団において一定の実在性があるという理論になる。一種の共同幻想論だろう。
◆ブラフマンの一元論
シャンカラが生きた8世紀のインドでは、バクティ(信愛)と呼ばれる神々への帰依信仰が盛んになり、ブラフマンを大衆が救いを求める人格神と仰ぐ傾向が強まっていた。シャンカラは、『ウパニシャッド』に基づいてその風潮を批判し、根本原理としてのブラフマンを強調した。
シャンカラによると、ブラフマンは世界の根本にある絶対の原理である。ブラフマンは、どのような限定もできず、部分を持たず、絶対無差別であり、不変不滅の実在である。そうしたブラフマンは、最高我でもある。
彼によると、実在するのはブラフマンのみであり、現象界のあらゆるものは幻影である。だが、すべてのものの存在を否定しても、それらを否定する自己の存在を否定することはできない。これこそが自己の本質であり、アートマンである。個我としてのアートマンは、限定や条件を離れており、根本においては、最高我であるブラフマンと一致する。シャンカラのこの思想は、『ウパニシャッド』の梵我一如の思想を発展させたものである。
不二一元論は、ブラフマンの一元論ゆえ、バクティの対象となるような人格神を信仰の対象とするものではない。それゆえ、シャンカラの思想においてバクティは、解脱を目指すために重要な役割を占めるものではない。
◆二種類のブラフマン
『ウパニシャッド』には、ブラフマンについて二つの見解が書かれている。属性を持たないブラフマン(ニルグナ・ブラフマン)と属性を持つブラフマン(サグナ・ブラフマン)である。この違いは、言わば、理法にして原動力である神性(godheit)と、人格化された神(god)との相違である。ヴェーダーンタ学派は、これらブラフマンの二つの面をどのようにして整合的に解釈するかを課題とした。
シャンカラは、この課題を絶対的観点と相対的観点を区別することで解決しようとした。絶対的観点から見ると、ブラフマンは一切の相対的な関係を超越した唯一無二の実在である。ブラフマンは、存在(サット)、精神(チット)、歓喜(アーナンダ)である。ブラフマンはこれらを属性として持つのではなく、本質としている。ブラフマンは、存在そのものであり、精神そのものであり、かつ歓喜そのものであるとシャンカラはいう。だが、現象界にある者の相対的観点から見ると、ブラフマンは属性や人格を持つ唯一神として映る。それが、主宰神として信徒が崇めているものであると説く。それゆえ、シャンカラの説では、属性を持たないブラフマンがブラフマンそのものであって、属性を持つブラフマンは前者の現れに過ぎない。
ブラフマンは絶対的な原理であって人格的な主宰神ではないとするならば、その理論は無神教に近づく。そこからシャンカラの思想を、無神教的一元論と解釈する見方が成り立つ。仏教に近い思想と理解する見方である。だが、シャンカラは、属性を持たない高次のブラフマンから属性を持つ低次のブラフマンが発生するとして、その限りで主宰神を認めるから、あくまで有神教である。
ここで私見を述べると、主宰神を最高のブラフマンの現れとする一方で、高次のブラフマンの本質の一つとして歓喜を挙げることは、ブラフマンを人格化することになっており、ブラフマンが本来、非人格的な原理であることと矛盾する。
シャンカラは、属性を持たないブラフマンから、属性を持つブラフマンがどのようにして発生すると説くのだろうか。彼は、前者に無明が加わると後者の主宰神が現れ、宇宙が展開するという。無明は無知ないし正しい知識の欠如を意味する。だが、私は、ブラフマンが無明の影響を受けるとするのは、ブラフマンを人間に似た不完全なものとらえるものであり、ブラフマンは絶対者ではないことになると考える。また、無明がブラフマンに影響を与えるとすれば、無明を根本原理とは異なる一種の原理とみなすことになる。これは、光に対する闇を立てるような二元論的な思考になり、ブラフマン一元論と矛盾する。それゆえ、私はこれらの矛盾点から、シャンカラの思想は破綻していると思う。
◆無明の消滅による解脱
シャンカラは、梵我一如論を徹底して世界は幻影であることを力説し、無明を消滅して解脱を目指すべきことを唱えた。
無明は、真実を覆い隠すだけでなく、虚妄を作り出す。自己は本来、無限定で永遠不滅の存在である。だが、暗い所に落ちている縄を蛇と見間違えるように、我々は自己を幻影にすぎない身体や心理作用等と誤認し、それを自己と思い込んでいる。そのため、自己が身体と結びつき、行為とその結果によって輪廻に陥ってしまっているとシャンカラは説く。
シャンカラによると、無明は個我(アートマン)の本質を知ることによって滅ぼすことができるとする。個我は最高我(ブラフマン)と同一であり、世界は無明が生み出した虚妄のものであることを知り、自己について正しい知識を得れば、解脱に至ることができる。さらに、シャンカラは、自己はもともと解脱しているのだが、無明のため、そのことが自覚されていないと説いた。正しい知識が得られた時、自己は本来の自己に目覚める。それが解脱であり、解脱は達成されるものというより、再認識されるものだという考え方である。この考え方は、大乗仏教の一部が煩悩即涅槃と説くのと似ている。
シャンカラは、ヒンドゥー教徒の四住期のうち、最初の学生期から直ちに遍歴修行をしてよいとした。この点では現世否定的であり、ここにも仏教の影響が認められる。
シャンカラの不二一元論は、インド文明を代表する思想として、後世に大きな影響を与えた。シャンカラは、正統派で初めて僧院を建立した。これは明らかに仏教の影響である。今日もシャンカラ派の僧院がインド各地に存在し、総本山は南インドのカルナータカ州シュリンゲーリにある。
シャンカラ派は、ヴィシュヌ宗でもシヴァ宗でもなく、どの宗派にも属していない。だが、シャンカラの思想は、シヴァ宗に影響を与えた。これに対し、ヴィシュヌ宗は、シャンカラの思想を批判する哲学者を輩出した。その代表的な存在がラーマーヌジャとマトヴァである。
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
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六派哲学の哲学者たちの中で、随一の存在がシャンカラである。シャンカラは700~750年頃のバラモンで、ヴェーダーンタ学派の巨頭であり、インド最大の哲学者といわれる。
◆不二一元論
シャンカラの思想は、不二一元論(ふにいちげんろん、アドヴァイタ)と呼ばれる。
不二一元論は、ブラフマンのみが実在するという説である。不二と呼ぶのは、ブラフマンだけが唯一で不二の実在であると説くことによる。
仏教では、4世紀に唯識説が発達した。ヒンドゥー教にはない極めて精緻な理論であり、ヴェーダーンタ学派は次第にその影響を受け、一切の現象は識の顕現と解釈するようになった。仏教は実体を否定するが、ヴェーダーンタ学派はブラフマンの実在を認める。また、前者はアートマンを否定するが、後者はアートマンをブラフマンと同一とする。そのため、この違いを踏まえた理論的な総合が必要になった。その総合を成し遂げ、唯識派的な世界幻影論を採り入れつつ、『ウパニシャッド』の梵我一如の思想を徹底したのが、シャンカラである。それゆえ、シャンカラの不二一元論は、世界幻影論的ブラフマン一元論と言い換えることができる。
シャンカラについて、『ウパニシャッド』の思想に仏教的要素を取り入れ、『ウパニシャッド』を仏教化したと見る者は、彼を「仮面の仏教徒」と呼ぶ。逆に、彼は仏教化していたヴェーダーンタ哲学を純化したと見る者は、正統派最高の哲学者と仰ぐ。
シャンカラの先駆者に、7世紀後半の哲学者ガウダパーダがいる。クシティ・モーハン・セーンによると、ガウダパーダは厳密な一元論者で、外界は幻影であり、ブラフマンのみが唯一の実在であるとした。また外的対象は純粋に主観的であり、夢は覚醒時の経験とほとんど異ならず、世界は巨大な幻覚で、ブラフマン以外にはなにものも存在しないと説いた。一方、シャンカラは、ブラフマンとアートマンの同一を主張し、最高実在以外の世界の存在を否定しながらも、世界を純粋な幻影とするガウダパーダの説は認めなかった。覚醒時の経験は、夢の中とは異なり、外的対象は単なる個人意識の産物ではないとした。それゆえ、シャンカラの世界幻影論は、世界は幻影ではあるが、個人個人の迷妄ではなく、集団において一定の実在性があるという理論になる。一種の共同幻想論だろう。
◆ブラフマンの一元論
シャンカラが生きた8世紀のインドでは、バクティ(信愛)と呼ばれる神々への帰依信仰が盛んになり、ブラフマンを大衆が救いを求める人格神と仰ぐ傾向が強まっていた。シャンカラは、『ウパニシャッド』に基づいてその風潮を批判し、根本原理としてのブラフマンを強調した。
シャンカラによると、ブラフマンは世界の根本にある絶対の原理である。ブラフマンは、どのような限定もできず、部分を持たず、絶対無差別であり、不変不滅の実在である。そうしたブラフマンは、最高我でもある。
彼によると、実在するのはブラフマンのみであり、現象界のあらゆるものは幻影である。だが、すべてのものの存在を否定しても、それらを否定する自己の存在を否定することはできない。これこそが自己の本質であり、アートマンである。個我としてのアートマンは、限定や条件を離れており、根本においては、最高我であるブラフマンと一致する。シャンカラのこの思想は、『ウパニシャッド』の梵我一如の思想を発展させたものである。
不二一元論は、ブラフマンの一元論ゆえ、バクティの対象となるような人格神を信仰の対象とするものではない。それゆえ、シャンカラの思想においてバクティは、解脱を目指すために重要な役割を占めるものではない。
◆二種類のブラフマン
『ウパニシャッド』には、ブラフマンについて二つの見解が書かれている。属性を持たないブラフマン(ニルグナ・ブラフマン)と属性を持つブラフマン(サグナ・ブラフマン)である。この違いは、言わば、理法にして原動力である神性(godheit)と、人格化された神(god)との相違である。ヴェーダーンタ学派は、これらブラフマンの二つの面をどのようにして整合的に解釈するかを課題とした。
シャンカラは、この課題を絶対的観点と相対的観点を区別することで解決しようとした。絶対的観点から見ると、ブラフマンは一切の相対的な関係を超越した唯一無二の実在である。ブラフマンは、存在(サット)、精神(チット)、歓喜(アーナンダ)である。ブラフマンはこれらを属性として持つのではなく、本質としている。ブラフマンは、存在そのものであり、精神そのものであり、かつ歓喜そのものであるとシャンカラはいう。だが、現象界にある者の相対的観点から見ると、ブラフマンは属性や人格を持つ唯一神として映る。それが、主宰神として信徒が崇めているものであると説く。それゆえ、シャンカラの説では、属性を持たないブラフマンがブラフマンそのものであって、属性を持つブラフマンは前者の現れに過ぎない。
ブラフマンは絶対的な原理であって人格的な主宰神ではないとするならば、その理論は無神教に近づく。そこからシャンカラの思想を、無神教的一元論と解釈する見方が成り立つ。仏教に近い思想と理解する見方である。だが、シャンカラは、属性を持たない高次のブラフマンから属性を持つ低次のブラフマンが発生するとして、その限りで主宰神を認めるから、あくまで有神教である。
ここで私見を述べると、主宰神を最高のブラフマンの現れとする一方で、高次のブラフマンの本質の一つとして歓喜を挙げることは、ブラフマンを人格化することになっており、ブラフマンが本来、非人格的な原理であることと矛盾する。
シャンカラは、属性を持たないブラフマンから、属性を持つブラフマンがどのようにして発生すると説くのだろうか。彼は、前者に無明が加わると後者の主宰神が現れ、宇宙が展開するという。無明は無知ないし正しい知識の欠如を意味する。だが、私は、ブラフマンが無明の影響を受けるとするのは、ブラフマンを人間に似た不完全なものとらえるものであり、ブラフマンは絶対者ではないことになると考える。また、無明がブラフマンに影響を与えるとすれば、無明を根本原理とは異なる一種の原理とみなすことになる。これは、光に対する闇を立てるような二元論的な思考になり、ブラフマン一元論と矛盾する。それゆえ、私はこれらの矛盾点から、シャンカラの思想は破綻していると思う。
◆無明の消滅による解脱
シャンカラは、梵我一如論を徹底して世界は幻影であることを力説し、無明を消滅して解脱を目指すべきことを唱えた。
無明は、真実を覆い隠すだけでなく、虚妄を作り出す。自己は本来、無限定で永遠不滅の存在である。だが、暗い所に落ちている縄を蛇と見間違えるように、我々は自己を幻影にすぎない身体や心理作用等と誤認し、それを自己と思い込んでいる。そのため、自己が身体と結びつき、行為とその結果によって輪廻に陥ってしまっているとシャンカラは説く。
シャンカラによると、無明は個我(アートマン)の本質を知ることによって滅ぼすことができるとする。個我は最高我(ブラフマン)と同一であり、世界は無明が生み出した虚妄のものであることを知り、自己について正しい知識を得れば、解脱に至ることができる。さらに、シャンカラは、自己はもともと解脱しているのだが、無明のため、そのことが自覚されていないと説いた。正しい知識が得られた時、自己は本来の自己に目覚める。それが解脱であり、解脱は達成されるものというより、再認識されるものだという考え方である。この考え方は、大乗仏教の一部が煩悩即涅槃と説くのと似ている。
シャンカラは、ヒンドゥー教徒の四住期のうち、最初の学生期から直ちに遍歴修行をしてよいとした。この点では現世否定的であり、ここにも仏教の影響が認められる。
シャンカラの不二一元論は、インド文明を代表する思想として、後世に大きな影響を与えた。シャンカラは、正統派で初めて僧院を建立した。これは明らかに仏教の影響である。今日もシャンカラ派の僧院がインド各地に存在し、総本山は南インドのカルナータカ州シュリンゲーリにある。
シャンカラ派は、ヴィシュヌ宗でもシヴァ宗でもなく、どの宗派にも属していない。だが、シャンカラの思想は、シヴァ宗に影響を与えた。これに対し、ヴィシュヌ宗は、シャンカラの思想を批判する哲学者を輩出した。その代表的な存在がラーマーヌジャとマトヴァである。
次回に続く。
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『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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