●『マヌ法典』
二大叙事詩と並んで、『マヌ法典』等の宗教的・道徳的・慣習的・法律的等の規範をまとめた法典群が成立したことが、ヒンドゥー教の確立において重要な意味を持つ。
『マヌ法典』は、紀元前200年から後200年頃に現在の形になったと推定されている。教義の項目に本書について書いたが、ここでその歴史的な意義を補足する。
『マヌ法典』は、12章2684条からなる。全篇が韻文で書かれており、辻直四郎は「法典というより、むしろ一大教訓詩と見なし得る」と述べている。
内容は、宇宙の根本理法(ダルマ)に基づく人間のあり方や生き方を定め、宗教、道徳、法律、生活の仕方等を総合的に説いたものである。単なる法律書ではない。法律的な規定は、全体の4分の1程度にすぎない。
構成は、宇宙の開闢、万物の創造から説き起こしている。次に、人生における様々な通過儀礼(サンスカーラ)、日々の行事、祖先の祭祀、ヴェーダの学習、飲食物、四住期(アーシュラマ)、国王の義務等が盛られている。法律的な規定としては、民法・刑法に相応する規定が18の部門に分けて定められている。続いて、種姓の義務や贖罪について記し、最後は輪廻、業、解脱について説いている。
こうした構成における中心的課題は、種姓法と生活期法である。前者は生まれついた身分的な集団に関する規範であり、前者はカースト制に関わる。後者は、人生の各段階に関わる規範であり、四住期に関わる。ヒンドゥー教徒に対し、これらの規範を実行し、各自に課せられた義務を事の成否や利害を考えずに実践することを求めている。そのうえで、人生の最後には解脱を目指すように教えている。
作者は、人間の始祖マヌに帰せられている。実際には、数世紀あるいはそれ以上の長年月にわたって、インドの社会で受け継がれてきた慣習法を集大成し、成文化したものと見られる。権力者が制定して、民衆に公布したものではなく、民衆の生活に目指した慣習に基づくものであるので、今日まで人々が遵守してきたと考えられる。
『マヌ法典』の中の宗教的な内容は、『バガヴァッド・ギーター』の説くところとよく一致しており、相補的である。本書の成立は、ヒンドゥー教を、バラモンによるヴェーダの宗教でも、非アーリヤ民族の諸部族の宗教でもなく、一個の民族宗教として確固たるものとして成立せしめたといえよう。
●グプタ朝の滅亡
ヒンドゥー教は、インド古典文化が完成期を迎えたグプタ朝の時代に、民衆に定着した。また、民衆の心をとらえて勢いを増し、仏教やジャイナ教より優位に立った。そして、インドの民族宗教としての基盤ができた。
だが、グプタ朝は、5世紀中頃から宮廷内の不和や中央アジアの遊牧民族エフタルの侵入等によって、急速に衰退した。アッティラのもとで大帝国を創ったフン族は、西ローマ帝国に侵入してヨーロッパ人に恐れられたが、西方から撤退すると、インドに480年頃から侵入し、インドの文化を破壊した。これによって、グプタ朝はさらに衰え、6世紀には地方領主が群立して滅亡した。
だが、グプタ朝が滅亡しても、ヒンドゥー教は衰えることなく、今日まで民衆の信仰として持続している。
●先住民族の文化の強さ
インド文明は、アーリヤ人の文化、とりわけバラモンの文化を主要な文化とする文明である。だが、先住民族の非アーリヤ人の文化が、この主要文化と融合し、部分的には被支配民族の文化が支配民族の文化より優位に立っているところに、顕著な特徴がある。
例えば、先に書いたように、『マハーバーラタ』はバーラタ族の戦争を語る叙事詩であり、その中の『バガヴァッド・ギーター』は、ヒンドゥー教の精髄ともいえる文献である。内容は、宗教的にはヴィシュヌ信仰に基づいており、ヴィシュヌの化身とされる英雄クリシュナが活躍する。バーラタ族はアーリヤ人の部族だが、クリシュナは肌が黒いとされている。すなわち、主人公が肌の白いアーリヤ人ではなく、肌の黒い非アーリヤ人になっているのである。
ヴィシュヌは、アーリヤ人の神話に出てくる神々の一人だが、ヒンドゥー教の成立過程で、それまでの主要な神々だったインドラ、ヴァルナ、ミトラに代わって台頭し、主神の座に上った。ヒンドゥー教でヴィシュヌと並ぶシヴァも、アーリヤ人の神々の一人であり、ヒンドゥー教の成立過程で主神の座に就いた。シヴァはインダス文明以来のリンガを象徴とし、インダス文明に由来するヨーガの王と呼ばれる。その点では、非アーリヤ的な性格を強く持っている。
このようにインド文明においては、先住民族の文化がアーリヤ人の文化の基層にあって、強い影響力を持っている。外から来たアーリヤ人の文化を下から変質させ、一部は取って代わるほどの強力なエネルギーを発している。
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
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二大叙事詩と並んで、『マヌ法典』等の宗教的・道徳的・慣習的・法律的等の規範をまとめた法典群が成立したことが、ヒンドゥー教の確立において重要な意味を持つ。
『マヌ法典』は、紀元前200年から後200年頃に現在の形になったと推定されている。教義の項目に本書について書いたが、ここでその歴史的な意義を補足する。
『マヌ法典』は、12章2684条からなる。全篇が韻文で書かれており、辻直四郎は「法典というより、むしろ一大教訓詩と見なし得る」と述べている。
内容は、宇宙の根本理法(ダルマ)に基づく人間のあり方や生き方を定め、宗教、道徳、法律、生活の仕方等を総合的に説いたものである。単なる法律書ではない。法律的な規定は、全体の4分の1程度にすぎない。
構成は、宇宙の開闢、万物の創造から説き起こしている。次に、人生における様々な通過儀礼(サンスカーラ)、日々の行事、祖先の祭祀、ヴェーダの学習、飲食物、四住期(アーシュラマ)、国王の義務等が盛られている。法律的な規定としては、民法・刑法に相応する規定が18の部門に分けて定められている。続いて、種姓の義務や贖罪について記し、最後は輪廻、業、解脱について説いている。
こうした構成における中心的課題は、種姓法と生活期法である。前者は生まれついた身分的な集団に関する規範であり、前者はカースト制に関わる。後者は、人生の各段階に関わる規範であり、四住期に関わる。ヒンドゥー教徒に対し、これらの規範を実行し、各自に課せられた義務を事の成否や利害を考えずに実践することを求めている。そのうえで、人生の最後には解脱を目指すように教えている。
作者は、人間の始祖マヌに帰せられている。実際には、数世紀あるいはそれ以上の長年月にわたって、インドの社会で受け継がれてきた慣習法を集大成し、成文化したものと見られる。権力者が制定して、民衆に公布したものではなく、民衆の生活に目指した慣習に基づくものであるので、今日まで人々が遵守してきたと考えられる。
『マヌ法典』の中の宗教的な内容は、『バガヴァッド・ギーター』の説くところとよく一致しており、相補的である。本書の成立は、ヒンドゥー教を、バラモンによるヴェーダの宗教でも、非アーリヤ民族の諸部族の宗教でもなく、一個の民族宗教として確固たるものとして成立せしめたといえよう。
●グプタ朝の滅亡
ヒンドゥー教は、インド古典文化が完成期を迎えたグプタ朝の時代に、民衆に定着した。また、民衆の心をとらえて勢いを増し、仏教やジャイナ教より優位に立った。そして、インドの民族宗教としての基盤ができた。
だが、グプタ朝は、5世紀中頃から宮廷内の不和や中央アジアの遊牧民族エフタルの侵入等によって、急速に衰退した。アッティラのもとで大帝国を創ったフン族は、西ローマ帝国に侵入してヨーロッパ人に恐れられたが、西方から撤退すると、インドに480年頃から侵入し、インドの文化を破壊した。これによって、グプタ朝はさらに衰え、6世紀には地方領主が群立して滅亡した。
だが、グプタ朝が滅亡しても、ヒンドゥー教は衰えることなく、今日まで民衆の信仰として持続している。
●先住民族の文化の強さ
インド文明は、アーリヤ人の文化、とりわけバラモンの文化を主要な文化とする文明である。だが、先住民族の非アーリヤ人の文化が、この主要文化と融合し、部分的には被支配民族の文化が支配民族の文化より優位に立っているところに、顕著な特徴がある。
例えば、先に書いたように、『マハーバーラタ』はバーラタ族の戦争を語る叙事詩であり、その中の『バガヴァッド・ギーター』は、ヒンドゥー教の精髄ともいえる文献である。内容は、宗教的にはヴィシュヌ信仰に基づいており、ヴィシュヌの化身とされる英雄クリシュナが活躍する。バーラタ族はアーリヤ人の部族だが、クリシュナは肌が黒いとされている。すなわち、主人公が肌の白いアーリヤ人ではなく、肌の黒い非アーリヤ人になっているのである。
ヴィシュヌは、アーリヤ人の神話に出てくる神々の一人だが、ヒンドゥー教の成立過程で、それまでの主要な神々だったインドラ、ヴァルナ、ミトラに代わって台頭し、主神の座に上った。ヒンドゥー教でヴィシュヌと並ぶシヴァも、アーリヤ人の神々の一人であり、ヒンドゥー教の成立過程で主神の座に就いた。シヴァはインダス文明以来のリンガを象徴とし、インダス文明に由来するヨーガの王と呼ばれる。その点では、非アーリヤ的な性格を強く持っている。
このようにインド文明においては、先住民族の文化がアーリヤ人の文化の基層にあって、強い影響力を持っている。外から来たアーリヤ人の文化を下から変質させ、一部は取って代わるほどの強力なエネルギーを発している。
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
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