ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権388~人間とは何か

2016-12-13 08:52:21 | 人権
●人間とは何か

 人権の内容並びに各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利に関して、主な論者の主張を概観した。次に私見を述べる。
 これまでの項目で私は、人権の範囲を定めるには、人間とは何か、人間らしい生活とはどういう生活かが問われねばならないと書いた。人間とは何かという問いについては、本稿の第1部で基礎的な考察を行い、第4部では折に触れてそれに基づく見解を述べてきた。ここで人権に関することに絞って、あらためて要点を書くことにする。その後、人間らしい生活について述べる。
 私は、人権との関係で、人間とは何かを問う際、次に述べることが考慮されるべきだと考える。キーワードは、個人性と社会性、生物性と文化性、身体性と心霊性、人格、共感である。
 人間には個人性と社会性、生物性と文化性、身体性と心霊性という三つの対で示される性質がある。個人性とは、身体的に自立し、個々に性別・年齢・世代等の違いがあるという性質であり、社会性とは、そうした個人が社会を構成して集団生活を行っているという性質である。生物性とは、生物であり動物であるヒトとしての性質であり、文化性とは、高度に発達した言語・技術・知能を持つという性質である。身体性とは、物質的な肉体を持ち、脳の機能によって生命活動を行うという性質であり、心霊性とは、肉体と脳と相関関係にありながら一定の独立性を示す精神的な霊魂を持つという性質である。
 人間は、個人的存在であるとともに社会的存在である。人間には、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求があり、さらに自己実現・自己超越の欲求がある。人間はこれらの欲求の充足を求めるが、欲求の実現は個人だけでは為し得ない。実現のためには、家族的な生命のつながりを基礎とした集団における協力を必要とする。近代西欧的なアトム的な個人という考え方は、生命の共有に基づく共同性を以て修正されねばならない。人間は、集団を形成し、また集団に所属しなければ、生存・生活できない。単体では生命の再生産ができない。人間は、雌雄の性に分かれており、両性の生殖活動によってのみ子孫が生まれる。男女の結合によって、父・母・子からなる家族を構成し、家族間で生命が共有され、集団的に生命の継承がされる。そうした家族を単位として、社会が構成され、国家が組織される。その国家を主要な単位として国際社会が組織されている。
 人間はまた生物的存在であるともに文化的存在であり、身体的存在であるとともに心霊的存在である。生物的・身体的存在としての人間は、生きていくために、空気や水や食料を必要とする。空気は誰もが自由に呼吸できるけれども、水や食料は集団的な活動を行わなければ、獲得できない。文化的存在としての人間は、言語を話し、道具を使う。言語や技術は、家族を中心に、親から子へ、世代から世代へと教育・継承される。そうした集団的な活動によって文化を創造・継承し、宗教・科学・技術・芸術を発達させる。心霊的存在としての人間は、自己を心霊的存在だと自覚し、死後の世界を考えたり、宇宙との一体性の回復や生命の本源への回帰を願ったりする。死は個人の終わりというだけでなく、集団における見取り、弔い、追想を伴う。それゆえ、人間は、単に生物的・身体的な存在としてだけでなく、文化的・心霊的存在として、互いに尊重されねばならない。
 人間にはまた各個人が人格を形成し、成長・発展させるという特徴がある。人格とは、道徳的または宗教的な行為を行い、法的または道徳的な権利義務が帰属し得る主体である。個人は家族の一員として生まれ、家族において成長する。諸個人は親子・兄弟姉妹・祖孫等の家族的な人間関係において、人格を形成する。そして親族や地域、民族、国家等の集団の一員として、社会的な関係の中で、人格を成長・発展させる。
 諸個人は、人格的存在として、社会的な実践を行う。その実践において、さまざまな価値を生み出す。人間は、生命的価値だけでなく、文化的・心霊的価値を生み出すことによって、尊厳が認められる。人格は、文化的及び心霊的な価値を生み出す主体であり、それゆえに人格にも尊厳が認められる。
 人格的存在としての個人は、その能力の行使を社会的に承認される。権利は、集団の権利あってのものであり、個人の権利は集団によって付与され、また保護される。権利の行使には責任が伴い、相互的な義務によって裏付けられる。権利は、それを保障する集団の目的に沿って用いられねばならない。
 人間には上記の欲求を実現する能力があるが、その能力を分析的に捉えるために、本能、知能、理性、知性、感性、感覚、感情、思考、霊性、徳性等の概念が一般に用いられる。それらの諸能力の共通の根にあるものの一つに、共感がある。共感は、人間が知能を発達させ、文化を創造・継承する上で、重要な役割を果たしてきた能力である。欲求のうち、所属と愛の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求は、共感の能力の養成や発揮によってこそ、実現される。共感の対象・範囲は、親子、夫婦、兄弟姉妹から親族、友人等へと拡大され得る。また、共同体の内部の人々へ、さらに共同体の外部の人々へも拡大され得る。共感が広く諸集団を貫いて人類全体に働くならば、世界人権宣言にいう「人類家族」における共感と呼ぶことができるだろう。
 人格の成長・発展は、より豊かな共感の能力をもたらす。またそれによって共感を共通の根とする諸能力も発達する。相手の身になって感じ、考えることができる能力が大きく発達するならば、人々は相互の権利を承認し合い、また保障し合うようになり、権利は、集団の目的のもとに責任・義務を伴ったものとして発達するだろう。そして「発達する人間的な権利」としての人権は、人間の人格的な向上とともに発達していくだろう。
 21世紀の人権論は、人間は、共通の根に共感を持つ諸能力を集団的に発揮する人格的存在であるという人間観を取り入れるべきである。共感の能力に注目することによって、個人の人格を尊重しつつも、個人本位・権利志向ではなく、家族・民族・国家、責任・義務・目的を重視した人権論の構築が可能になるだろう。
 ところで、本稿でしばしば書いてきたように、諸文明・諸社会における価値観・人間観には、家族型による価値観が深く影響している。家族型のうち平等主義核家族、絶対核家族、直系家族、共同体家族の4つの主な類型における自由・権威、平等・不平等の価値の組み合わせによる価値観及びそれに基づく人間観の違いが、人類の相互理解を阻み、誤解や対立を生む一つの原因となっている。これらの家族型を、絶対核家族なり共同体家族なりに強制的に統一することはできない。それゆえ、家族型的な価値観に違いがあることを互いに認識し、自らの価値観を相対化して、家族型のレベルの価値観より、もっと基本的な、人類として共通している価値のレベルに立って、相互理解を進める必要がある。そのためにも、本稿に書いた個人性と社会性、生物性と文化性、身体性と心霊性、人格、共感という要素を考慮した人間観を目指す必要がある。

 次回に続く。