ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権384~最低限保障を目指すべき権利

2016-12-05 08:56:21 | 人権
●いわゆる人権の内容をどのようなものとするか

 各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利の範囲はどこまでとすべきか。次にその点について検討したい。
 いわゆる人権を最も狭い範囲に限るのは、(1)自由権の一部のみ、という考え方である。次いで、大まかに言えば、(2)自由権全般と参政権まで、(3)社会権まで、(4)「発展の権利」等の人権発達史の第3段階の権利まで、というように、内容が拡大される。今日の国際社会では、(4)までを人権と呼ぶことが多くなっている。さらにこれを拡張しようとして新たな権利も主張されている。
 人権の範囲について、学者や専門家の間には、様々な意見がある。第10~11章で人権と正義について書いたところで詳述したが、前期ロールズは、正義を論じる際、自由権の一部と社会権の一部を人権と考えた。後期ロ―ルズは、人権の範囲を自由権の一部を中心とした差し迫った権利のみとし、非常に狭く限定する。ミラーは、人権は基本的ニ―ズに基づくとし、自由権・参政権に社会権の一部を含めており、後期ロールズよりは広い。センは人権を道徳的権利の要求とし、ミラーよりもっと拡張的である。「発展の権利」やさらに新しい権利も、要求として認める。ヌスバウムは、女性・障害者・外国人の権利の拡大を主張し、さらに動物へと対象を広げている。これらの論者は、みな正義論から人権論を説いており、正義論を踏まえて、人権を論じなければいけないという考え方である。
 その一方、正義論を説かずに人権を論じる学者・専門家や社会的な実践家もいる。イグナティエフは、人権を消極的自由かつ虐殺・抑圧・残酷等からの自由のみに限定する。ガットマンは、これらにプラス生存に関する権利すなわち飢餓からの自由等とするという意見である。一方、社会権や「発展の権利」等も人権として主張する有識者も多い。
 人権に関する国際会議において様々な合意がなされてきながら、その合意を反省的に思考する学者や専門家の間で意見が分かれているのは、人権の協議において、人間観の検討を避ける傾向があることによる、と私は思う。「人間とは何か」という問いについては、第1部以降、折に触れて私見を述べてきたが、そうした人間の考察に基づいて、人権の内容や各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利とは、どのようなものであるべきかを定める必要がある。その際、「人間らしい生活」とはどういう生活かについても検討する必要がある。
 最低限保障すべき権利の内容について、主な論者の主張を概観し、その後に私見を述べる。

●ロールズにおける最低限の権利

 今日の人権論に強い影響を与えているロールズは、『正義論』で、正義とは公正である、公正とは正義の2原理が実現している状態である、と考えた。正義の2原理は、自由を優先しつつ、平等に配慮するものである。そこには自由権の一部と社会権の一部が含まれており、これらの権利は一般に人権と称されているものである。それゆえ、ロールズの正義とは人権が公正に実現している状態であり、人権とは公正としての正義の実現を求める権利だと考えられる。これは、人権の定義に正義の概念を入れた定義である。ただし、ロールズ自身は、人権と正義の関係をこのように定めてはいない。私の解釈に基づく正義論の人権論への応用である。
 ロールズは、『正義論』で「基本財(基本善 primary goods)」という概念を使用した。基本財とは、善い生き方の構想がどのようなものであれ、各自の考える善い生き方をしようとする上で普遍的に必要となるものをいう。権利、自由と機会、所得と富、自尊心の社会的基礎を含むとされる。これらの「財(善いもの goods)」は、人権の内容に関わるものである。ただし、ロールズは、社会契約説に基づき、実質的に国民国家の人民を主体とした正義を考えたので、基本財に対する権利は、各国の憲法において、その国民の権利として規定されるべきものである。
 ロールズは、後期の著作では、人権の内容を非常に狭く限定した。ロールズは「諸国民衆の法」の構成原理の中に、人権に関する事項を含めている。彼に関する項目で揚げたリストにおいて、(1)の「各国民衆は自由かつ独立であり、その自由と独立は、他国の民衆からも尊重されなければならない」、(6)の「各国民衆は諸々の人権を尊重しなければならない」がそれである。そして、ロールズは、次のような意見を述べた。
 「諸国民衆の法における人権とは、奴隷状態や隷属からの自由、良心の自由(しかし、これは必ずしも、良心の平等な自由ではないのだが)、大量殺戮やジェノサイドからの民族集団の安全保障といった、特別な種類の差し迫った権利を表している」と。
 この「特別な種類の差し迫った権利」を以て、最低限の人権、基本的な人権とすべきという意見は、基本的人権を、自由権のうちのごく一部と特殊な状況における集団の生存に関する権利に限っている。自由権のその他の権利や参政権、社会権は、「諸国民衆の法」における人権に含めていない。ロールズは、この意見より自由権を広くする考えも示しているが、いずれにしても人権の内容を狭く限定する考えである。前期ロールズは、国内的な正義原理では、自由を優先しつつ、機会の平等と格差の是正を図ることで、自由と平等の調和的な均衡を実現しようとした。そこでは、実質的に社会権の一部が含まれていたが、後期の国際的な正義に係る「諸国民衆の法」には社会権が含まれていない。
 ロールズは、このように基本的人権の内容を非常に狭く定めたうえで、人権の政治的・社会的な役割を限定している。次の三つである。

(1)諸々の人権の実現は、ある社会の政治制度やその法秩序が良識あるものであるための必要条件である。
(2)諸々の人権の実現は、他国から、正当な理由のある強制的介入――たとえば、外交的制裁や経済制裁による介入、また深刻な場合には、軍事力による介入――を受ける余地をなくすための十分条件である。
(3)諸々の人権は、各国民衆の多元性に一定の制限を課す。

 ここにおいて、ロールズの人権は、実定法に定める法的権利ではなく道徳的権利であり、主に国内法に対して制限を加え、国際社会でも一定の制限を課すものである。彼の道徳的権利は、私のいう社会的権利の一種である。ロールズの最低限の人権とは、最低限の道徳的権利であり、各国の国内法及び国際法に最低限の制限を加えるものと理解される。
 ロールズの考え方は、基本的に歴史的に発達してきた人権の思想の広がりを考慮せずに、社会契約説の応用により、自らの政治理論を設計しようとしたものである。「諸国民衆の法」における人権と世界人権宣言における人権を比較すると、前者は後者より範囲を非常に狭く限っている。ロールズは、国際社会では、前者程度の範囲の権利しか合意できない、またはそのように非常に限定された権利であれば、諸国民衆の間で合意が可能と考えたのだろう。だが、世界人権宣言は、国連加盟国の多くが賛同しているものであり、賛同国にはイスラーム教諸国もある。宣言の理念を具体化した国際人権規約は、加盟国を直接に拘束する効力を持つ条約であるが、現在、自由権規約、社会権規約とも160か国以上が締約している。個別的人権条約である女性差別撤廃条約などは、187か国も締結している。ロールズの考え方は、歴史的事実とも国際社会の現実ともかけ離れた狭いものとなっている。
 ロールズは、人権を非常に狭く限定するが、人権に含む自由と権利について、なぜ奴隷状態や隷属からの自由、良心の自由、大量殺戮やジェノサイドからの民族的安全保障を、最低限の人権、基本的な人権とすべきかを、明示しない。当然ロールズの所論は、人間はこうあるべきであるとか、またはこうあるべきではないという観念が前提となっているはずであるが、ロールズは、そのことに触れない。なぜ奴隷状態や隷属はあってはならないのか、なぜ良心の自由が求められるのか、なぜ大量殺戮や民族浄化はあってはならないのか。人間は隷属を受けるべきではなく、良心を働かせることができるべきであり、集団的に殺戮・抹殺されてはならない、とロールズが考えているからだろう。そこには、一定の人間観が存在するはずである。ロールズは、「道理を理解する(reasonable)」とか「良識ある(decent)」という形容詞で、その人間観を暗示してはいる。だが、それだけである。哲学的思考に必要な反省的思考が行われていない。
 ロールズは、前期の社会契約説が想定した近代西欧市民社会の市民やカント的な自由で平等な道徳的人格という人間観から離れ、人格・価値・能力・資格について主張せず、また否定もしないという姿勢を取った。それによって、幅広い合意が可能になると考えたのだろうが、人権という権利の承認と保障の主体にして対象でもある人間そのものの考察が足りないために、人権の内容を掘り下げて検討することができなくなっている。また、その結果、彼の説く最低限保障を目指すべき権利、基本的な人権の内容は、説得力を欠いている、と私は思う。

 次回に続く。