ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権393~恩恵として「人間的な権利」を与える

2016-12-25 10:09:27 | 人権
●恩恵として「人間的な権利」を与える

 例外的な状況にある人間は、生きる上で最低限必要な物資と環境を自力で得ることができない。食べるもの、水、着るもの、居る場所等を自分で得ることができず、生きる能力は持ってはいるが、自力で生活する能力を発揮できない。また、家族的生命的な集団に所属できないか、またはその集団が機能しておらず、集団において生存・生活することができない。こうした状態の人間は、他者から支援や保護を受けなければ、生存することや幸福を追求することができない。
 一方的に支援や保護を受けるのみという状態にある人間の中には、乳幼児、重病患者、極貧の困窮者、重度の障害者、要介護の高齢者等があるが、彼らは家庭や集団や国家において、家族の一員、集団の一員、国民の一員として権利を保障される。その点が、例外的状況にある人間とは異なる。
 例外的な状況にある人間の場合は、自力で生活することができない。恩恵によって、飲食物・衣服・居場所等を提供しなければ生きられない。飲食物・衣服・居場所等の提供は、生存・生活に必要な最低限の物資と環境を恵み与えるものである。また、例外的な状況にある人間は、家族的生命的な集団に代わるつながりをつくるための助力を必要とする。その助力も、支援や保護を受ける側は、当然の権利としてではなく、相手に慈善を請い求めるものである。このような関係において、もし支援や保護を行う側が、その相手に精神・生命・身体・財産の権利を認めるとすれば、それは最低限保障を目指すべき「人間的な権利」を恩恵として与える行為である。恩恵としての精神・生命・身体・財産の権利の付与は、道徳的な行為である。
 こうした道徳的な行為を単に自発的なものにとどめず、例外的状況における個人に最低限保障を目指すべき「人間的な権利」を付与し、それを保障する制度を国際的に作り、迫害、強制労働、性的暴行、虐待虐殺等を防ぐことが必要である。例えば、北朝鮮における政治犯収容所での強制労働、セルビア・ヘルツェゴビナでの民族浄化、中国での法輪功の生体臓器取り出しの防止及び停止等を、当該政府に対して要求し、権利の尊重を図るものである。
 例外的な状況にある個人に権利を付与することは、もともとすべての個人に普遍的かつ生得的な権利があるということには、ならない。こうした考え方は、歴史的・社会的・文化的に発達してきたものだからである。それぞれの個人は、集団において生まれ、集団に属し、集団によって権利を与えられる。集団の成員としての権利を持つ。集団において精神・生命・身体・財産の権利は絶対的なものではない。すなわち、不可侵の権利ではない。集団の決まりごとに違反する行為に対しては、法の規定のもとに、精神的自由への権利については規制が、生命的自由への権利については殺害が、身体的自由への権利については拘束が、財産的自由への権利については没収や罰金等が課せられることがある。その集団の決まりごとに従い、秩序を維持するために、こうした権利の制限や剥奪を行う権利が認められる。人間の個人性と社会性の二側面においては、社会性に優位がある。それは、人間は、集団生活を営むことなくして生活・生存できない生物だからである。個人の権利は、集団の秩序・存続・繁栄に寄与する範囲内でのみ、認められる。例外的な状況にある人間に対しての権利の恩恵的付与は、そうした集団が解体・消滅しているか、または集団から孤立している個人への道徳的な支援である。
 先に道徳には、集団の規模と原理の及ぶ範囲によって、家族道徳、社会道徳、国民道徳があるが、最低限保障を目指すべき「人間的な権利」の実現を追求するには、人類規模における道徳、人類道徳を構想する必要があると書いた。人類は未だ人類道徳を確立できていない。国家・宗教・文化・文明等を越えて、すべての集団と個人に共通する道徳を形成できていない。「人間の尊厳」という人権思想の要となる観念についてさえ、共通の認識を確立できておらず、集団の権利と個人の権利の関係についても明確な合意を作り得ていないのだから、当然のことである。人類道徳の形成には、人間観の転換が必要である。その課題については、本章の最後の項目で述べる。

 次回に続く。