●発展途上国の国家と国民の権利
移民は周辺部から中核部へと流入するが、彼らの出身地である周辺部において、権利の問題状況はどのようであるか。
20世紀末の1990年代からグローバリズムが世界を席巻した。先進国による経済的自由・市場の自由の普及が、中核部が周辺部を支配し、収奪する構造を強化した。その結果、周辺部では伝統的な共同体が解体され、多数の低賃金労働者が生まれるとともに、貧困と不衛生が構造化された。また、周辺部から中核部へと流入する移民労働者が増え、中核部における下層階級となっていく。自由の理念と市場の論理によって、中核部で強者の権利が拡大するとき、周辺部では弱者の権利は縮小される。
旧植民地の発展途上国では、資本主義の発達と近代化の進行の中で、まず必要なのは近代国家の建設である。独自の国家の建設は、「発展の権利」の実現において、極めて重要な課題である。近代国家の建設は、西欧発の文明が支配的な国際社会において、自国の権利を確保し、国家の権力を強化することである。発展途上国の政府は、自国の国民経済を育成し、集団としての国家の権利を強化しようとする。またグローバリズムの圧力に対し、国民経済と国家の主権を守るため、保護主義・反グローバリズムを取る。これは、その国家の権利の行使であり、集団の権利の行使である。
発展途上国において、ある程度、国家の建設が進み、経済的な豊かさが得られると、国民が国民の権利を求めるようになる。最初に求められるのは、賃金労働者の権利である。たとえば、中国は経済発展が目覚ましく、GDPはアメリカに次いで世界第2位になったが、農村から流入した多数の労働者は産業革命期のイギリスの工場労働者のように、劣悪な労働条件のもとに置かれている。彼らにとっては、労働者の権利の獲得が課題である。その権利は、自由化と民主化による国民の権利の拡大につながっていく。
資本主義が発達し近代化が進行する過程で、周辺部の国々では教育が普及し、識字率が向上する。識字率が上がると、青年層を中心に政治的な意識が高まり、専制政治への反対や民主化の運動が起こる。また国民経済の発達により、中産階級が成長すると、彼らを中心に国民が政治的な権利を求めるようになる。識字率の向上は女性の出生率の低下につながる。それによって、家族関係に変化が生まれ、社会の価値観が変動する。また女性の社会的意識が発達し、女性も政治参加を求めるようになる。
国民が政治的な権利を拡大することによって、国民の経済的な権利も拡大していく。国民経済がさらに成長し、一層の豊かさが得られると、社会権としての経済的権利が実現されるようになる。発展途上国が貧困や不衛生から脱出できるのは、この段階である。そして、発展途上国の国民が先進国の水準から見て、「人間らしい」「人間的な」水準の権利を享受できるのは、国家建設の成功、国民経済の成長、国民の権利の拡大によってであって、最初から「個人の権利」の追求によって得られるのではない。発展途上国において、「人間が生まれながらに平等に持つ権利」としての人権を求めても、単なる理想論に終わる。
●新たな権利の主張
現在、人権発達史の第3段階の権利の総称として、「連帯の権利」が唱えられている。そのうち「発展の権利」については先に書いたが、他にも新たな権利が主張され、また一部では実現されている。その一つに、「環境と持続可能性への権利」がある。1972年の国連人間環境会議におけるストックホルム宣言に盛り込まれたほか、ギリシャ、ブルガリア、ポーランド、ポルトガル、フランス等の憲法に取り入れられている。ほかに「平和への権利」、「人類の共同財産に関する所有権」、「人道援助への権利」等がある。現在のところ、これらの権利については、否定的な意見が多い。さまざまな権利を人権とすることによって、既成の権利の信頼性・実定性が損なわれる、集団の権利によって個人の権利が侵害される、権利を要求する対象となる義務主体が明確でない、権利主体に集団を含めると義務主体が同一になる等がその理由である。
社会と文化の変化によって、従来当然とされてきたことが正当性を疑われ、既成観念が否定されて新しい権利意識が生まれてくる。社会が複雑化すると、人間の自由や生存にかかわる新しい社会問題も生じてくる。前者の新しい権利意識の例が、児童の権利である。以前は権利の主体と考えられていなかった児童に権利を認めたものである。誕生前の胎児の権利を主張する意見もある。さらには人間の範囲を超えて、動物の権利を主張する意見もある。そのうち植物の権利とか細胞の権利、ミトコンドリアの権利等へまで議論が広がるかもしれない。後者の新たな社会問題の例が、環境権、情報化社会の中でプライヴァシーの権利、国民の「知る権利」である。これらは現代的な権利であるが、普遍的・生得的な権利としての人権ではない。文明が発達してきた段階において初めて生じてきた権利であって、これらを普遍的・生得的な権利という意味で人権と呼ぶのは不適当である。これらは、歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」として考えるべき権利である。
こうした新たな権利について国際的な議論を行うためには、人権の発達史を踏まえて、人権そのものの再検討がなされねばならない。本稿で繰り返し述べてきた課題である。
●権利の種類と内容のまとめ
人権と呼ばれる権利の種類と内容に関して書いてきた。ここまでのまとめを述べると、自由権・参政権・社会権を一括して、「人間が生まれながらに持つ権利」という意味で人権と呼ぶことは不適当である。これらの権利は、多くの場合、国家があることが前提になっている。自由権は国家の統治機関である政府の干渉・制約からの自由を確保する権利、参政権は政府の権力に参加する権利、社会権は政府に積極的な給付を求める権利である。これらは、ほとんどは国家と国民の関わりにおける権利である。
現代世界では、ある国でその国の国民であることを示す資格として、国籍がある。一国において非国民に国籍を与えることは、自国の国民と同等の権利を与えることである。国籍は、国民の権利証である。この点を加えて言い換えれば、自由権は、自分が国籍を持つ国の法によって保障される自由への権利である。参政権は、自分が国籍を持つ国の政治に参加する権利である。社会権は、自分が国籍を持つ国家の政府に給付を請求する権利である。そして、それらの権利を保障するものは、その国民が所属する国家の政府である。保障される権利の内容は、当然国によって違う。こういう権利は、普遍的に人間が生得的に持つ権利という意味での人権とは言えない。ここで保障されるのは、あくまで「国民の権利」である。
近代国家における自由権・参政権・社会権以外に、近代西欧以前及び以外の社会にも、権利は存在した。家族・氏族・部族においても、組合・団体・社団等においても、各々その集団の成員に権利が認められてきた。その権利は、ほとんどが集団の成員の権利である。国民の権利は集団の成員の権利が発達したものであって、集団とは別に個人の権利が発達したものではない。
以上で、人権と呼ばれる権利の種類と内容関する検討を終え、次に各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利の考察に移りたい。
次回に続く。
移民は周辺部から中核部へと流入するが、彼らの出身地である周辺部において、権利の問題状況はどのようであるか。
20世紀末の1990年代からグローバリズムが世界を席巻した。先進国による経済的自由・市場の自由の普及が、中核部が周辺部を支配し、収奪する構造を強化した。その結果、周辺部では伝統的な共同体が解体され、多数の低賃金労働者が生まれるとともに、貧困と不衛生が構造化された。また、周辺部から中核部へと流入する移民労働者が増え、中核部における下層階級となっていく。自由の理念と市場の論理によって、中核部で強者の権利が拡大するとき、周辺部では弱者の権利は縮小される。
旧植民地の発展途上国では、資本主義の発達と近代化の進行の中で、まず必要なのは近代国家の建設である。独自の国家の建設は、「発展の権利」の実現において、極めて重要な課題である。近代国家の建設は、西欧発の文明が支配的な国際社会において、自国の権利を確保し、国家の権力を強化することである。発展途上国の政府は、自国の国民経済を育成し、集団としての国家の権利を強化しようとする。またグローバリズムの圧力に対し、国民経済と国家の主権を守るため、保護主義・反グローバリズムを取る。これは、その国家の権利の行使であり、集団の権利の行使である。
発展途上国において、ある程度、国家の建設が進み、経済的な豊かさが得られると、国民が国民の権利を求めるようになる。最初に求められるのは、賃金労働者の権利である。たとえば、中国は経済発展が目覚ましく、GDPはアメリカに次いで世界第2位になったが、農村から流入した多数の労働者は産業革命期のイギリスの工場労働者のように、劣悪な労働条件のもとに置かれている。彼らにとっては、労働者の権利の獲得が課題である。その権利は、自由化と民主化による国民の権利の拡大につながっていく。
資本主義が発達し近代化が進行する過程で、周辺部の国々では教育が普及し、識字率が向上する。識字率が上がると、青年層を中心に政治的な意識が高まり、専制政治への反対や民主化の運動が起こる。また国民経済の発達により、中産階級が成長すると、彼らを中心に国民が政治的な権利を求めるようになる。識字率の向上は女性の出生率の低下につながる。それによって、家族関係に変化が生まれ、社会の価値観が変動する。また女性の社会的意識が発達し、女性も政治参加を求めるようになる。
国民が政治的な権利を拡大することによって、国民の経済的な権利も拡大していく。国民経済がさらに成長し、一層の豊かさが得られると、社会権としての経済的権利が実現されるようになる。発展途上国が貧困や不衛生から脱出できるのは、この段階である。そして、発展途上国の国民が先進国の水準から見て、「人間らしい」「人間的な」水準の権利を享受できるのは、国家建設の成功、国民経済の成長、国民の権利の拡大によってであって、最初から「個人の権利」の追求によって得られるのではない。発展途上国において、「人間が生まれながらに平等に持つ権利」としての人権を求めても、単なる理想論に終わる。
●新たな権利の主張
現在、人権発達史の第3段階の権利の総称として、「連帯の権利」が唱えられている。そのうち「発展の権利」については先に書いたが、他にも新たな権利が主張され、また一部では実現されている。その一つに、「環境と持続可能性への権利」がある。1972年の国連人間環境会議におけるストックホルム宣言に盛り込まれたほか、ギリシャ、ブルガリア、ポーランド、ポルトガル、フランス等の憲法に取り入れられている。ほかに「平和への権利」、「人類の共同財産に関する所有権」、「人道援助への権利」等がある。現在のところ、これらの権利については、否定的な意見が多い。さまざまな権利を人権とすることによって、既成の権利の信頼性・実定性が損なわれる、集団の権利によって個人の権利が侵害される、権利を要求する対象となる義務主体が明確でない、権利主体に集団を含めると義務主体が同一になる等がその理由である。
社会と文化の変化によって、従来当然とされてきたことが正当性を疑われ、既成観念が否定されて新しい権利意識が生まれてくる。社会が複雑化すると、人間の自由や生存にかかわる新しい社会問題も生じてくる。前者の新しい権利意識の例が、児童の権利である。以前は権利の主体と考えられていなかった児童に権利を認めたものである。誕生前の胎児の権利を主張する意見もある。さらには人間の範囲を超えて、動物の権利を主張する意見もある。そのうち植物の権利とか細胞の権利、ミトコンドリアの権利等へまで議論が広がるかもしれない。後者の新たな社会問題の例が、環境権、情報化社会の中でプライヴァシーの権利、国民の「知る権利」である。これらは現代的な権利であるが、普遍的・生得的な権利としての人権ではない。文明が発達してきた段階において初めて生じてきた権利であって、これらを普遍的・生得的な権利という意味で人権と呼ぶのは不適当である。これらは、歴史的・社会的・文化的に発達する「人間的な権利」として考えるべき権利である。
こうした新たな権利について国際的な議論を行うためには、人権の発達史を踏まえて、人権そのものの再検討がなされねばならない。本稿で繰り返し述べてきた課題である。
●権利の種類と内容のまとめ
人権と呼ばれる権利の種類と内容に関して書いてきた。ここまでのまとめを述べると、自由権・参政権・社会権を一括して、「人間が生まれながらに持つ権利」という意味で人権と呼ぶことは不適当である。これらの権利は、多くの場合、国家があることが前提になっている。自由権は国家の統治機関である政府の干渉・制約からの自由を確保する権利、参政権は政府の権力に参加する権利、社会権は政府に積極的な給付を求める権利である。これらは、ほとんどは国家と国民の関わりにおける権利である。
現代世界では、ある国でその国の国民であることを示す資格として、国籍がある。一国において非国民に国籍を与えることは、自国の国民と同等の権利を与えることである。国籍は、国民の権利証である。この点を加えて言い換えれば、自由権は、自分が国籍を持つ国の法によって保障される自由への権利である。参政権は、自分が国籍を持つ国の政治に参加する権利である。社会権は、自分が国籍を持つ国家の政府に給付を請求する権利である。そして、それらの権利を保障するものは、その国民が所属する国家の政府である。保障される権利の内容は、当然国によって違う。こういう権利は、普遍的に人間が生得的に持つ権利という意味での人権とは言えない。ここで保障されるのは、あくまで「国民の権利」である。
近代国家における自由権・参政権・社会権以外に、近代西欧以前及び以外の社会にも、権利は存在した。家族・氏族・部族においても、組合・団体・社団等においても、各々その集団の成員に権利が認められてきた。その権利は、ほとんどが集団の成員の権利である。国民の権利は集団の成員の権利が発達したものであって、集団とは別に個人の権利が発達したものではない。
以上で、人権と呼ばれる権利の種類と内容関する検討を終え、次に各国及び国際社会において最低限保障を目指すべき権利の考察に移りたい。
次回に続く。