ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権386~基本的人権とセンのケイパビリティ

2016-12-09 08:42:17 | 人権
基本的人権とセンのケイパビリティ

 人権の内容並びに各国及び国際社会において最低限保障されるべき権利を検討するため、次にセンの理論と主張を再度確認しておこう。取り上げるキーワードは、ケイパビリティ(潜在能力)、人間開発、人間の安全保障である。
 人権は権利であり、権利は能力の行使が社会的に承認されたものである。その能力の行使は、一定の条件のもとで可能になる。ここで主体の能力に関わるのがセンのケイパビリティである。
 センは、ロールズの基本財は「せいぜい人間の暮らしにとって価値ある目的のための手段でしかない」とし、「何か別のもの、特に自由のための手段に過ぎない」と主張する。そして、ケイパビリティの概念を用いて、同じ基本財でも、それが実際に可能にする自由は、健常者と障害者、富裕者と困窮者等の間で異なることを明らかにした。それによって、ロールズの自由の概念を実質的な自由へと練り直した。
 センは、自由の拡大を目的とする。その自由はケイパビリティによる実質的自由である。人権を自由の拡大を求める権利とするならば、センにおいてはケイパビリティの拡大を求める権利である。センは、特に人間生活の基本となる衣食住、社会生活への参加等については可能な限りの平等を図るべきだと訴え、障害者、女性、困窮者等の権利を主張している。内容と主体に触れて最低限の平等の実現を課題として打ち出している。ここでの平等もまたケイパビリティの発揮に関わるものである。
 ところが、センは、ケイパビリティについて考え方を示すのみで、具体的なリストを提示しない。それゆえ、人権の内容についても、具体的なリストを提示していない。ミラーは、センのケイパビリティについて、次のように述べている。「人間の潜在能力という観念は、人間に備わっている能力のうち重要なものとそれほどではないものに本質的な区別を付けない。潜在能力とは、過度に栄養を摂取する能力を指すかもしれないし、キャビアを食べる能力を指すかもしれない」と。センはケイパビリティのリストを提示しないが、「貧困についての記述を見ると、センも『基本的潜在能力』とそれ以外の区別を暗黙裡に持ち込んでいる」とミラーは指摘する。この見方が正しければ、センのケイパビリティには、「基本的潜在能力」とそれ以外の潜在能力があるということになる。
 ミラーの基本的ニーズは、主体がケイパビリティを発揮するための環境的な条件である。食物や水、衣服や安全な場所、身体的安全、医療、教育、労働と余暇、移動や良心や表現の自由等とされる。これらは、個人の選択によって潜在能力を発揮するための最低限の物質的・社会的条件と理解される。ミラーの主張に従えば、基本的ケイパビリティを発揮するための条件と、それ以外のケイパビリティを発揮するための条件を区別する必要がある。私が思うに、前者の基礎的な条件には、空気、水、食糧、安全な住居、共同体への所属、言語・計算に関する基礎的な教育が挙げられよう。後者の追加的な条件には、より高度な教育、労働のできる環境、健康を維持できる医療、共同体の意思決定への参加等が挙げられよう。
 基礎的条件だけでは、個人の選択の幅は限られる。選択肢を増やし、選択の自由を拡大しようとすればするほど、そのために必要な環境的条件は増加する。医療・教育・労働等はそれぞれの社会の文化や技術によって水準が異なる。それらの条件の確保をすべて人権または基本的人権という概念で正当化することはできない。正当化し得ない条件に関する権利は、基本的ではない非基本的な人権、または普遍的ではなく特殊的な権利ということになる。
 ここで非基本的または特殊的な権利が、それもまた人権の一部なのか、それとも国民の権利を主とする特定の集団における権利なのかを明確にしなければならない。特定の社会において、その構成員に付与される権利を、普遍的・生得的な権利という意味で人権と呼ぶのは妥当でない。そうした権利は、ネイションにおいては国民の権利であり、エスニック・グループにおいては民族的な共同体の構成員の権利である。センにおいては、ケイパビリティの分析が不十分なため、権利の分析もまた不十分になっている。

●ケイパビリティのリストと基本的ニーズの比較

 センと異なり、ヌスバウムはケイパビリティについて、10項目のリストを示す。繰り返しになるが、簡単な要約を掲げる。

(1)生命: 早死にを免れ、生きるに足る人生を送ることができること。
(2)身体の健康: 身体の健康を維持できること。
(3)身体の不可侵: 身体の持つ能力を発揮できること。
(4)感覚・想像力・思考力: 識字能力を身に付け、思考力を展開できること。
(5)感情: 愛情、友情等の情緒を育むことができること。
(6)実践理性: 宗教的・道義的生活を営むことができること。
(7)連帯: 他者との平等な関係のもとで社会生活を営むことができること。
(8)他の種との共生: 動植物とともに、ないし自然環境の中で生活できること。
(9)遊び: リクリエーション活動を行うことができること。
(10)自分の環境の管理: 政治参加、所有などが確保されること。

 これらは、ケイパビリティのリストであるが、能力と自由が混在している。「~できること」を「~する権利」という文言にすべて置き換えると、権利のリストと見ることもできる。それらの権利のうち、人権の内容とすべきものとそれ以外とに分けることにより、ケイパビリティに基づく人権の内容を検討することができるだろう。
 上記のリストとミラーの基本的ニーズを比較すると、ヌスバウムの(1)(2)(3)は、ミラーの食物や水、衣服や安全な場所、身体的安全、医療に関わる。(4)は、ミラーの教育に関わる。(9)は、ミラーの余暇に関わる。一方、(5)、(6)、(7)、(8)、(10)は、ミラーの基本的ニーズに対応物を見出すことができない。逆に、ミラーの労働、移動や良心や表現の自由等は、ヌスバウムのリストに対応物を見出すことができない。もっとも全く対応しないというのではなく、緩やかに関係するという見方も可能だろう。
 ミラーは、ヌスバウムについて、センと対照的に「『文化横断的な広範な合意を得られる』と主張する『核心的な人間的機能に関わる潜在能力』の長く綿密なリストを作り出している」と述べている。だが、ミラーは、ヌスバウムのリストを基本的ニーズと基本的ケイパビリティの関係という観点から具体的に検討していない。
 ミラーとセン及びヌスバウムの主張には、かなり隔たりがある。その隔たりの原因は、どこにあるのだろうか。私は、人間とは何か、また「人間らしい生活」とはどういう生活かという問いについて、掘り下げた検討がされていないことにあると考える。

 次回に続く。