西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

戦後70年

2015年08月15日 | つれづれに
戦後70年
 
2015(平成27)年8月15日は太平洋戦争が終わって70年になる。今年は節目の年ということもあってか、新聞、テレビなどで戦争に関する記事や番組が多かったように思う。私のように戦後の生まれであっても年齢(とし)をとってくると色々と興味を持って知ることが多かった。私の職業柄( 整形外科医・・・・いまは手術はしていないですが )お年寄り相手の診療のことが多くて話し相手をする機会が多々ある、その中に Y さんという高齢の男性がいる。下半身麻痺でいつも車椅子、話好きで 来られた時は昔の話をよくされて 暇つぶしに絵を描いているのであげます-といって浮世絵や、静物の絵を時々持ってきてくださる。 
 
その中には Y さんが若い頃に経験した戦争中の絵もあった・・・・・ 筑紫野駅に停車中の西鉄電車がアメリカの戦闘機に機銃掃射を受けてたくさんの人が亡くなった時の絵(写真1)、工場に奉仕活動で狩り出されていた時に遭遇した空襲で爆撃を受けて燃える博多の街を描いた絵( 写真2 )、朝倉郡にあった陸軍の太刀洗飛行場が B29 に爆撃された時に日本の戦闘機が体当たりして B29 が墜落した現場を見に行った時の回想絵( 写真3、4 )、ご本人の話では ”憲兵隊が現場に到着する前にみたからね( つまり現場の封鎖前 )、飛行機の破片が地面に突き刺さって辺りにアメリカ搭乗員の無残な死体があったよ・・・・” とのこと。 
ちょっと合間に浮世絵の絵を・・・smile(写真5)。 

また自らが従事した飛行機製造工場でいろいろな飛行機を作ったこと・・・本人は練習機、零戦、双発爆撃機、水上機など説明を入れられてちゃんと色分けして描いてある( 写真6 )、特に「 震電 」( 本人は神電と書いて幻 [マボロシ] と添えておられますが )という新型戦闘機は後ろに6枚羽のプロペラが付いていて変な形の飛行機だったけれど B29 への対抗戦闘機として作られて板付飛行場で初飛行した時のことなど話してくださった( この「 震電 」という戦闘機は私も子供の頃に小さなプラモデルで作りました )。その後びっくりしたんですが震電の初飛行の模様が不鮮明な画像ながらU-tubeに掲載されているんですね・・・・日本の飛行機技術は大したものだったというのを再確認したのでした。 

Yさんの話を聞いたりしていると 戦争世代であった両親や叔父さん、叔母さん達にもっと色々なことを聞いておくべきだったなあと思うことがしばしばです。 父と父の弟、母の二番目の弟は共に陸軍士官学校出の生粋の職業軍人・・・・・父の弟は陸士を卒業して間もなく中国戦線で戦死、母の2番目の弟もサイパン島で戦死・・・・なんて話を聞いていた私は 祖母や母が毎年のように靖国神社にお参りに行ったり、サイパン島への慰霊団に参加して島を訪れたりしたのがわかるような気がします。 こんなことは一般の日本人にとってはそのような当時の日本に生まれたがための運命みたいなものだったんだなと感じます。

   

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