西部劇と懐かしのカントリー&ウェスタン日記

現代とはかけ離れたOld Countryの世界ですがずっと続けていきます。興味のある方は時々のぞいてみて下さい。

お気に入りCD 5 Jimmie Rodgers

2010年08月13日 | ジミー・ロジャースを歌う
Jimmie Rodgers (5)  
米国盤 Collectables Records COL-2700 Jimmie Rodgers  The Memorial Album

(1)Blue Yodel ( T for Texas ) (2)Away Out On The Mountain (3)Frankie And Johnny (4)The Brakeman's Blues-Yodeling The Blues Away (5)My Old Pal (6)Desert Blues (7)I'm Sorry We Met (8)Blue Yodel No. 3 ( Evening Sun Yodel ) (9)My Carolina Sunshine Girl (10)Sleep Baby Sleep (11)Blue Yodel No. 2 ( My Lovin' Gal, Lucille ) (12)Tuck Away My Lonesome Blues (13)Never No Mo' Blues (14)Daddy And Home (15)Waiting For A Train (16)Blue Yodel No, 4 ( California Blues ) (17)Dear Old Sunny South By The Sea (18)Blue Yodel No. 6 (19)Pistol Packin' Papa (20)Jimmie's Mean Mama Blues (21)You And My Old Guitar (22)Prairie Lullaby (23)Old Pal Of My Heart (24)My Little Lady


博多のあるCD屋さんで 新品なのに800円で出ていたもの。 ジャケットを見ただけで買ってしまったいわゆる ”ジャケット買い ”・・・・・なかなか素敵な色合いで気に入って何にも考えずに買った・・・・時々こうしたものがあります。 だからジャケットというのはとても大事だと思います、アルバムの顔だから 面白そうだな-とか聴いてみたい-と思わせるようなジャケットは大事(私のようにつられて買う人がいるから)。 たとえ聴いてみて失敗だったとしても許せる気がします。 このアルバム おそらく売れなくて値段も下げられたんでしょう・・・・・古~いカントリーに興味のある人が目に止めるくらいでしょうし、ジミー・ロジャースの歌 ( 今の時代に響くだけのほんとにいいメロディラインを持った歌が多いです ) が大好きな私はちょっと哀れさを感じてこのCDを買いました。ジミーの歌がオリジナルの形で入っているので古色蒼然としていますが、ギターの弾き語りを覚えたり 新しいスタイルにアレンジする音源として利用するなど・・・・でいくらでも現代に甦らせることが出来そうです。  Mark Marymont という人が書いた解説があってジミー・ロジャースの Short Story のようになっているので補足を加えながら2回に分けて訳して載せてみようと思います・・・・・

「 カントリー・ミュージック界で数多の優れた人物の中で ” King Of Country Music ” の称号に値する人物といったらジミー・ロジャースをおいて他にいないでしょう。
Jimmie Rodgers は1897( 明治30)年9月8日ミシシッピー州メリディアンに生まれました。父親は鉄道員で時には農夫、母親は彼が6歳の時に死んだので父親と親戚たちの手で育てられたのでした。ジミーは一日の大半の時間をメリディアンの町の街頭で過ごし、ブルースなどその地区の音楽に熱中したのでした・・・・・もっとも、ブルースの影響は微々たるものだと主張する人もいますが・・・・とにかくその町の生活の一部ともいえたボードヴィル(街頭、辻音楽士とでもいうんでしょうか)やダンスホール音楽の渦中で育ったということです。
12才の時にはタレントショウに出て人前で ”Steamboat Bill ” という曲を歌ったといいます。コンテストは上出来でしたが父親には認めてもらえず 逆にもっと鉄道の仕事に地道に励むよう諭されたことで ジミーは忠告に従って数年間は鉄道の仕事に専念して国中を渡り歩く生活をしたのでした。その時の経験が後に ”The Singing Brakeman ( 歌う制動手 ) ” と呼ばれる所以になっているのです。
その間最初の短い結婚生活で女児をひとりもうけました。1920年までには牧師の娘だった Carrie と再婚しています。1924( 大正13 )年に結核と診断されてからは鉄道の仕事をやめてしまい、1927( 昭和2 )年2人は健康のためにノースカロライナ州 Asheville に移り住み そこでジミーはミュージシャンとして働き始めました。The Jimmie Rodgers Entertainers と名付けて WWNC ラジオ局に出演し、ありとあらゆる音楽を演奏したのでした。
1927( 昭和2 )年の夏 Victor レコードのタレントスカウト Ralph Peer がこの地区を通りかかった際にジミーとそのグループはテネシー州 Bristol まで会いに行ったのでした。グループとして発表することについて口論となりジミー以外の3人が The Teneva Ramblers として宣言したためジミーはソロとしてオーディションを受けたのでした。 ジミーのユニークなヨーデルに興味を持ったラルフ・ピアは 古い戦争物のバラッド ”The Soldier's Sweetheart ” ともう1曲 ”Sleep, Baby, Sleep ” を録音させています。この2曲は1927( 昭和2 )年秋にビクターレコードからカップリングのシングル盤として発売され、売れ行きがよかったためさらなるレコーディングのきっかけになったのでした。
ジミーはニュージャージー州 Camden のビクター本社に赴き、自作の ”T For Texas ” を録音して ”Blue Yodel ” の名前で発売します・・・・その曲はすぐさま反響を呼び 初のカントリー百万枚セールのひとつになったのでした。1年もたたないうちに無名の歌手が当時としては破格の 1ヶ月に2000ドルものレコードを売り上げるビクター社のビッグスターになったのです。  ジミーは6年間に110曲録音しましたが、多くの曲がヒットになりました・・・・”Way Out On The Mountain ”、”Blue Yodel No. 4 ”、”Waiting For A Train ”、”A Drunkard's Child ” といったベストセラーは何度も何度も再発売されましたが、ほとんどの曲がジミーの自作か義理の妹 Elsie McWilliams との共作でした。 

ジミーとプロデューサーのラルフ・ピアはしばしばバック音楽に色々と実験的な試みをしています、バックシンガーや演奏に The Carter Family を使ったり Hawaian Steel Guitar を入れたり、ルイ・アームストロングのようなジャズバンドさえ使ったことがあります。どんな試みをしても結果的にレコードは よく売れたのでした。
ジミーは健康の許す限りは演奏ツアーに出ましたし 持病である結核( 当時は死の病。Tuberculos を略してT.B といった )を ”T.B Blues ”という歌にして自嘲気味に受け入れてもいました。 演奏旅行に出る他ラジオにも出演、ハリウッドからの要請にも応えて15分の短い映画 ”The Singing Brakeman ” にも出演しています・・・・・次回に続く  
(2010年7月12日 記事)
コメント
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