Ray Price (3)
米国盤 abc Dot Records DOSD-2062 " Hank ' n ' Me "
(1)Why Don't You Love Me (2)I'm So Lonesome I Could Cry (3)Jambalaya (4)I Can't Help It (5)Your Cheati' Heart (6)Hey, Good Lookin' (7)Kawliga (8)A Mansion On The Hill (9)Half As Much (10)Cold, Cold Heart (11)You Win Again
毎月1日のハンク・ウィリアムス関連の第5弾はレイ・プライス(1926年~現在 テキサス州出身)です。駆け出しの頃にハンクと行動を共にしたレイなのでハンクが亡くなって真っ先に Tribute song ないしTribute Album を・・・・・と思いがちですが何と1976(昭和51)年 になって初めてTribute Album を出しています。レイにとっては必ずしも良い想い出だけではなかった・・・・・ということが底辺にあったんでしょうか?
音的には全体にストリングスを入れてモダンな作りになっていて、彼のバンドThe Cherokee Cowboys を使ったフィドル(バイオリン)、スティールギター入りのホンキートンクスタイルだけを期待するとあてがはずれてしまいます。でもレイの声が渋い塩辛声なのでそれだけで”カントリー”として十分です。通しで聴くと(8)Mansion On The Hill が際立ってよくて、ピアノ、スティールギター、ドーブロギターを入れて朗々と歌っており(聴いていると涙が出るくらい)レイもこの曲が一番好きなのでは・・・・と思わせるものになっています(その他の曲も単独でポンと聴くとなかなか Good です)。
裏にJerry Flowers という人が書いた解説があります、長いですが補足を加えながら訳して載せてみます・・・・・・・・
「テキサス州のダラスから来たレイ・プライスがTroy Martin の Pre-Opry Show に出演するためにテネシー州ナッシュビルにあるWSM局のCースタジオにやって来たのは1951(昭和26)年の晩秋の頃だった。 レイはBig D Jamboree(テキサス州ダラスで1947~1960年代中頃まで続いたCountry Music Show で多くの歌手の登竜門となった)の新進歌手として大変な反響を受けていたのでGrand Ole Opry(テネシー州ナッシュビルで1925年から現在まで続いているCountry Music Show)での成功にも希望を持っていたのでした。しかしまだ十分のヒット曲が無かった若き日のレイ・プライスには Opryで一舞台を張れるほどの資格がなく、前座のショウに甘んずるほかなかったのでした。
スタジオに入って色んな出演者に紹介された中に手足が長くてヒョロッとした長身のハンク・ウィリアムスがいたのです。ハンクはレイ・プライスに興味をもって ショウの後自宅に招き翌日のインディアナ州 Evansvilleでのショウ出演に誘い、その演奏旅行の途中に書いた”Weary Blues”という曲をレコーディングしないかともちかけたのでした。
束の間のOpry出演の後テキサスに帰ったレイ・プライスに一ヵ月してハンクから電話があり Grand Ole Opry系列のThe Prince Albert Show にゲストで出ないか・・・・・といってきたのです。レイの述懐・・・・”もう寝耳に水でしたよ。何を歌ったかも覚えていません、ヒット曲じゃなかったことは確かですけどね”・・・と。そのことがあってから オープリーのレギュラー、レコーディングスター、天才的な作曲家としての Hank Williams と 独自性とヒット曲を出すべくあがいている新進歌手 Ray Price の2人の絆は深まっていったのでした。
ハンクの手助けもあってレイ・プライスはオープリーのレギュラーとなり、大手レコード会社と契約、レイにとってハンク・ウィリアムスはちょっとした保護者的な存在といってよい状態でした。レイのキャリアにとってハンクの存在は単にオープリーへのドアを開けてくれたただけでなく、途方もない追い風になったのでした。
レイの述懐・・・・”当時はGrand Ole Opry への出演契約ができたというだけで生活出来たものです、でもすぐに解雇されたんですよ・・・・・・というのも、ある時魚釣りに行っていてOpry出演に遅れたことがあったんです、たったそれだけでクビになりました・・・・・・ハンクやロイ・エイカフ、アーネスト・タブ達がとりなしてくれて復帰できたんですけれどね。 ハンクは演奏の行く先々で聴衆に向かってこう言ったものです==みなさん、Ray Priceが一緒に来てくれました。彼はいつかきっとNo.1の歌手になりますよ、是非聴いてやって下さい!==とね。大勢の聴衆の前でハンクのようなビッグスターに推薦の言葉をかけられると何ともいえない気持ちがしてね、どんなにハンクに助けてもらったことか!!”
その後2人の友情が深まりハンクといくつかのショウに出演し、演奏はハンクのバンド The Drifting Cowboysが受け持つという具合でした。
プライベートでは Kentucky湖に釣りに出かけたり・・・・・で、2人は遂にはナッシュビルの Natchez Trace Avenue の家に同居するようになりました。そこではハンクの作った曲をはじめて聴いてやるのがレイの役割みたいなことだったのです。
レイの述懐・・・・・・”ある晩Jambalayaを歌ってからこの曲はどうだい、好きかい?と聞いてきたので Great!と答えました、するとハンクがレコードにしないか? と云うんです、僕はそれは有難い きっとヒットするよ!・・・・と答えたんですが・・・・2~3日してから ほんとにヒットすると思うかい? というので ああ絶対間違いないよ というと、じゃ俺がレコーディングするよ と言ったのです。”
それから六ヵ月後にハンクは亡くなりましたが レイ・プライスの中にはハンクの影響が残り続けました。Ray Priceはステージで自然に楽々と自分のスタイルで観客を魅了するハンクのやり方-とか ハンクの曲Cold Cold Heart を歌ってミリオンセラーをとったトニー・ベネットのようなポピュラー歌手達のやり方- を踏襲しています。1957年までのレイ・プライスの特徴です。あるハンク・ウィリアムスの伝記作家は次のように言っています・・・・・"レイ・プライスはもう全てにおいてHank Williamsの後継者たらんとした" と。
ハンクの愛弟子であり、親友でもあったレイ・プライスに対してTribute Albumを出すべきだとの意見は当然のことのように思えます、しかしレイは23年間それに応えませんでした。ハンクに敬意を表わしたい・・・という思いとハンクの死後すぐにそうしたレコードを出すことで商業的に食い物にするように受け取られるかもしれない・・・という強い嫌悪感とのはざ間で苦しんだのでした。
レイの述懐・・・・・”ハンクの死のことでほとぼりが冷めるまで私は23年間待ったのです---ハンクがきっと望むであろうように私はしたかったのです。それでよかったんだと思います。彼が天から舞い降りてきて私を叱咤しようと棒を振り上げたかもしれませんが(何で俺の歌を歌わないんだ・・・・・ということかな??)、もしそうだったとしても きっとニッコリと笑ってくれるはずです。私はいまとてもハンクへのTribute Albumを作りたい気持ちでいっぱいです。彼の音楽がある限りハンクは永遠に生き続けるでしょう。”
ハンク・ウィリアムスについては語り尽くされているのでここで付け加えることは何も有りません。音楽そのものが語ってくれます・・・・・四半世紀前に書かれたsimple でhonest、touching(感動)とpithy(簡潔)そしてtimeless(永遠)の歌の数々。The songs here are Ray's Favorites of Hank's many. Price says "I did 'em my way and his way, that's why I titled the album Hank 'n' Me. "」・・・・・・・・・・・・以上です。
単品でCDとしてあるのか不明です
米国盤 abc Dot Records DOSD-2062 " Hank ' n ' Me "
(1)Why Don't You Love Me (2)I'm So Lonesome I Could Cry (3)Jambalaya (4)I Can't Help It (5)Your Cheati' Heart (6)Hey, Good Lookin' (7)Kawliga (8)A Mansion On The Hill (9)Half As Much (10)Cold, Cold Heart (11)You Win Again
毎月1日のハンク・ウィリアムス関連の第5弾はレイ・プライス(1926年~現在 テキサス州出身)です。駆け出しの頃にハンクと行動を共にしたレイなのでハンクが亡くなって真っ先に Tribute song ないしTribute Album を・・・・・と思いがちですが何と1976(昭和51)年 になって初めてTribute Album を出しています。レイにとっては必ずしも良い想い出だけではなかった・・・・・ということが底辺にあったんでしょうか?
音的には全体にストリングスを入れてモダンな作りになっていて、彼のバンドThe Cherokee Cowboys を使ったフィドル(バイオリン)、スティールギター入りのホンキートンクスタイルだけを期待するとあてがはずれてしまいます。でもレイの声が渋い塩辛声なのでそれだけで”カントリー”として十分です。通しで聴くと(8)Mansion On The Hill が際立ってよくて、ピアノ、スティールギター、ドーブロギターを入れて朗々と歌っており(聴いていると涙が出るくらい)レイもこの曲が一番好きなのでは・・・・と思わせるものになっています(その他の曲も単独でポンと聴くとなかなか Good です)。
裏にJerry Flowers という人が書いた解説があります、長いですが補足を加えながら訳して載せてみます・・・・・・・・
「テキサス州のダラスから来たレイ・プライスがTroy Martin の Pre-Opry Show に出演するためにテネシー州ナッシュビルにあるWSM局のCースタジオにやって来たのは1951(昭和26)年の晩秋の頃だった。 レイはBig D Jamboree(テキサス州ダラスで1947~1960年代中頃まで続いたCountry Music Show で多くの歌手の登竜門となった)の新進歌手として大変な反響を受けていたのでGrand Ole Opry(テネシー州ナッシュビルで1925年から現在まで続いているCountry Music Show)での成功にも希望を持っていたのでした。しかしまだ十分のヒット曲が無かった若き日のレイ・プライスには Opryで一舞台を張れるほどの資格がなく、前座のショウに甘んずるほかなかったのでした。
スタジオに入って色んな出演者に紹介された中に手足が長くてヒョロッとした長身のハンク・ウィリアムスがいたのです。ハンクはレイ・プライスに興味をもって ショウの後自宅に招き翌日のインディアナ州 Evansvilleでのショウ出演に誘い、その演奏旅行の途中に書いた”Weary Blues”という曲をレコーディングしないかともちかけたのでした。
束の間のOpry出演の後テキサスに帰ったレイ・プライスに一ヵ月してハンクから電話があり Grand Ole Opry系列のThe Prince Albert Show にゲストで出ないか・・・・・といってきたのです。レイの述懐・・・・”もう寝耳に水でしたよ。何を歌ったかも覚えていません、ヒット曲じゃなかったことは確かですけどね”・・・と。そのことがあってから オープリーのレギュラー、レコーディングスター、天才的な作曲家としての Hank Williams と 独自性とヒット曲を出すべくあがいている新進歌手 Ray Price の2人の絆は深まっていったのでした。
ハンクの手助けもあってレイ・プライスはオープリーのレギュラーとなり、大手レコード会社と契約、レイにとってハンク・ウィリアムスはちょっとした保護者的な存在といってよい状態でした。レイのキャリアにとってハンクの存在は単にオープリーへのドアを開けてくれたただけでなく、途方もない追い風になったのでした。
レイの述懐・・・・”当時はGrand Ole Opry への出演契約ができたというだけで生活出来たものです、でもすぐに解雇されたんですよ・・・・・・というのも、ある時魚釣りに行っていてOpry出演に遅れたことがあったんです、たったそれだけでクビになりました・・・・・・ハンクやロイ・エイカフ、アーネスト・タブ達がとりなしてくれて復帰できたんですけれどね。 ハンクは演奏の行く先々で聴衆に向かってこう言ったものです==みなさん、Ray Priceが一緒に来てくれました。彼はいつかきっとNo.1の歌手になりますよ、是非聴いてやって下さい!==とね。大勢の聴衆の前でハンクのようなビッグスターに推薦の言葉をかけられると何ともいえない気持ちがしてね、どんなにハンクに助けてもらったことか!!”
その後2人の友情が深まりハンクといくつかのショウに出演し、演奏はハンクのバンド The Drifting Cowboysが受け持つという具合でした。
プライベートでは Kentucky湖に釣りに出かけたり・・・・・で、2人は遂にはナッシュビルの Natchez Trace Avenue の家に同居するようになりました。そこではハンクの作った曲をはじめて聴いてやるのがレイの役割みたいなことだったのです。
レイの述懐・・・・・・”ある晩Jambalayaを歌ってからこの曲はどうだい、好きかい?と聞いてきたので Great!と答えました、するとハンクがレコードにしないか? と云うんです、僕はそれは有難い きっとヒットするよ!・・・・と答えたんですが・・・・2~3日してから ほんとにヒットすると思うかい? というので ああ絶対間違いないよ というと、じゃ俺がレコーディングするよ と言ったのです。”
それから六ヵ月後にハンクは亡くなりましたが レイ・プライスの中にはハンクの影響が残り続けました。Ray Priceはステージで自然に楽々と自分のスタイルで観客を魅了するハンクのやり方-とか ハンクの曲Cold Cold Heart を歌ってミリオンセラーをとったトニー・ベネットのようなポピュラー歌手達のやり方- を踏襲しています。1957年までのレイ・プライスの特徴です。あるハンク・ウィリアムスの伝記作家は次のように言っています・・・・・"レイ・プライスはもう全てにおいてHank Williamsの後継者たらんとした" と。
ハンクの愛弟子であり、親友でもあったレイ・プライスに対してTribute Albumを出すべきだとの意見は当然のことのように思えます、しかしレイは23年間それに応えませんでした。ハンクに敬意を表わしたい・・・という思いとハンクの死後すぐにそうしたレコードを出すことで商業的に食い物にするように受け取られるかもしれない・・・という強い嫌悪感とのはざ間で苦しんだのでした。
レイの述懐・・・・・”ハンクの死のことでほとぼりが冷めるまで私は23年間待ったのです---ハンクがきっと望むであろうように私はしたかったのです。それでよかったんだと思います。彼が天から舞い降りてきて私を叱咤しようと棒を振り上げたかもしれませんが(何で俺の歌を歌わないんだ・・・・・ということかな??)、もしそうだったとしても きっとニッコリと笑ってくれるはずです。私はいまとてもハンクへのTribute Albumを作りたい気持ちでいっぱいです。彼の音楽がある限りハンクは永遠に生き続けるでしょう。”
ハンク・ウィリアムスについては語り尽くされているのでここで付け加えることは何も有りません。音楽そのものが語ってくれます・・・・・四半世紀前に書かれたsimple でhonest、touching(感動)とpithy(簡潔)そしてtimeless(永遠)の歌の数々。The songs here are Ray's Favorites of Hank's many. Price says "I did 'em my way and his way, that's why I titled the album Hank 'n' Me. "」・・・・・・・・・・・・以上です。
単品でCDとしてあるのか不明です