私の叔父は、1921年大正10年生まれだから今年95才、あの戦争がなかったら、まだ健在だったかもしれない。
お墓には「昭和18年1月5日ニューギニア方面で名誉の戦死」伊号〇潜水艦一等機関兵曹 と記されている。
戦死場所は戦後20年ほどして米側資料で、「ラバウル南東方面において、12月20日米潜水艦シードラゴンの雷撃により沈没、沈没地点南緯5度2分東経152度33分」と正確な位置が分かった
昭和13年17才で海軍に志願 高校2,3年生位の年令でなぜ?
当時の世相か、それにしても私の祖父母たる両親は、なぜ可愛い4人兄弟の末っ子を海軍に志願させたのだろう。
土蔵で見つけた古い紙切れからその謎が解けた。
矢兵収第2466号 昭和12年12月8日 〇〇村長
各区長殿 海軍志願兵ノ勧誘ニ関スル件
・・・・・採用人員ハ之リ公表セラレサルモ本県ニ対スル割当人員ハ本年ノ1270名ニ対シ明年ハ1500名ノ多数ニシテ配賦人員ヲ得ルニハ容易ナラザル実情ニ有元候・・・・・
優秀ナル志願者ヲ多数得候様特ニ御配慮相成度・・・・・
当時、行政区長を務めていた律儀な祖父は海軍志願兵の募集を勧めるためには率先して自分の子を志願させたのだろう。
昭和18年1月5日、22才で戦死、空箱に近い骨箱が届いたと聞いている。
3月、村葬が行われ、戦没者に送られる院戒名を、
天皇、皇后両陛下からは祭粢料、海軍大臣からお供物料、海軍省から弔慰金を頂戴し、多くの人々に見送られたという。
英雄、軍神、英霊の父母、郷土の誇り・・・・誉高かったと思うが、家に帰った祖父母は思いっきり泣いたに違いない。
後年、戦死者に対する恩給がはじまって、長生きした祖母は恩給をもらうたびに馴染みの花巻の石川茶店へ立ち寄り
「一番おいしいお茶をください」
「精郎、お茶っこ、買ってきたぞ、美味いから飲め」 仏壇の写真に語りかけていた姿が思い出される。
この夏休み、小6の孫が 広島の「非核平和学習会」に自分から希望して参加する。
8月15日の終戦記念日には戦没者慰霊祭で作文を読むという。
戦争、平和、非核に興味を持った今、昔話を伝えたいと思う。
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