岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

デジタル爺

2019-02-19 15:11:57 | いなか暮し

 昭和の終わり頃、勤めていた会社では、受発注はファックス1台、胸を張ってファックスありますと言えた時代だったと思う。
 そんな時代が平成に入って数年続いたが、ある日、主取引先から、来年度からの受発注は、全てインターネットで行いますので、よろしく対応の程を・・・・
 そんな時代は近いと、予想はしていたが、いざとなると簡単にはいかない。
 とりあえずパソコンを買ったって、ひとりでに動くものでもないし、今と違って教えてくれる人もいない、本屋さんに行った所で当時はパソコンコーナーなんて皆無。
 県の主催する、パソコン講習に通っては、ポチポチ覚えて、ロータス123や一太郎を何とか動かし、ネットにもどうにか繋がった頃、今度は、かな入力よりローマ字と言われて、またまた苦戦。
 涙ぐましい苦戦、必死の努力が実り、その頃に変わった、オフイスソフトを使って会社の仕事にも、どうにか役立てた。
 大分、慣れた頃に定年。

 突然、必要なくなったパソコン、せまる老化、次第に薄れる記憶。
 この冬、しばらくぶりにワードやエクセルを使う機会があったが、唖然・・
 昔、簡単に使っていた、パソコン作業をすっかり忘れている。
 いまや、パソコンはユーチューブ受信専用機になりさがった。
 そして、数年前からはスマホという厄介者が現れた。
 春、そのスマホに新しいアプリに挑戦したのが間違いの元。
 難解とは思っていたが、つまづいてしまって、前に進まない。
 知ってる人が、ポチポチ押せば、簡単に解決すると言うことは、パソコン時代から良くわかっている、それがデジタルだから。
 その簡単なことがわからない・・・・デジタル爺、失格、退場!

  まだ、時折雪が降っても、明るい青空が広がっている。
 PC、スマホなんて捨てて、暖かな春の日差しのもとで、早く野良仕事がしたい。

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冬仕事

2019-02-09 15:59:33 | いなか暮し

  集落の皆に愛され、境内は、かって子供たちの 
 遊び場だった八幡さまが、道路拡張のため取り壊された。
 切り倒された、集落一のご神木は樹齢200年程、神様も窮屈になった。

 立春過ぎて、再び、寒さが厳しくなり稲作専業農家のお年寄りはまだまだ冬眠状態。
 こんな時、昔のお年寄りは何をしていたんだろう、、、S20,30年ころ

 里山の一角の立木を、集落の仲間と共同で買い、その山に毎日通って立木を倒し、薪をつくり、小枝も大切に束ねての薪取り作業は晴れた冬の日にやったと思う。
 当時、電気は熱として利用することは無かったし、勿論ガスもまだまだ。
 冬の間に一年分の薪を取り、モミガラ竃と共に当時の大切な燃料つくり作業は冬の大事な仕事の一つ。
 薪取り作業の合い間、雪の日は、朝食を済ませて囲炉裏で、手を暖めてから、働き盛りの父母は、火の気のない作業小屋に行き、でき秋に米を入れて出荷する米俵つくり、父は藁をしごき、母は側で、しごいた藁を使って「俵編み」
 出来た俵は、お国の管理するお米の入れものだから、俵の検査も結構厳しかったと思う。

 ある日、いつものように作業小屋で俵編みをしていると、
 どぶろくの酛(どぶろくを作るときの元になるもの)を売り歩く、瀬五ェ門じいさんが来て、作業は中止してお茶のみ休憩、、

   「家の倅も、一人前になったし、今年二十だから、そろそろ嫁さんが・・・」
   「じいさんが酛売りに歩いていて、どこかに良い娘さんがいないかな?」
   「うん、となりの小山田村に、同じ二十のいい娘さんがいるはずだが・・・」
   「酒屋に出稼ぎに行ってる倅は早く帰らせるから見合いさせよう」

 いつもの年より、早めに出稼ぎ先の酒屋から戻り、3月の初めに見合い、結果は上々、見合いから1ヶ月の4月には、共に二十の結婚、、、
 と言うようなこともあった。
    (蛇足、この二人、金婚も、とうの昔にすぎてダイヤモンド婚も近いが今でも仲良し夫婦)
   同じ集落のお前のことだよ、お前


 昔の年よりは逞しかった。
 冬の間、山仕事や寒さの作業小屋で働いて、テレビもまだまだ、若い頃の伊勢参りの思い出話しを、毎日毎日ばあさんと話しては笑い、仕事の合い間に縁談までもこなした。

 今、当時の年寄りに比べたら20年も余分に生きる。
 食べすぎ飲み過ぎで、太るのが心配、運動不足、足が、膝がと散歩、
 冬眠と称してコタツに入りっぱなしでテレビを見ている。
 と、、反省しながら、今日も再放送の「水戸黄門」など見ている・・・・・

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寒い遠野路

2019-02-06 17:54:03 | いなか暮し

 山々に囲まれた遠野盆地は、寒い所とよく言われている。
 寒い所は、寒い時期に訪れるのが一番と、立春前の、特に冷えた寒い日に訪ねた。
 朝から強い風が吹き、時折地吹雪の舞う、遠野は、さすがに寒かった。
 確認したいこともあって、先に小友町を訪ねた。
 夏休み、子供たちと、花巻から高田方面に、海水浴に行くときは、必ず通った街、道の両側の水路は、大量の水が流れ、羨ましいと思っていたが、今でもその流れは変わらない。
 バイパスが通り、車の流れは少なくなったが街並みは昔のままだった。

 遠野の街に入ってから、遠野の八幡さまをお詣り、御朱印を頂いてから、今日の目的に向かう。
 車は道端に停めて、細い雪の山道は、人の足跡はまったくなし、ウサギだろうか、動物の足跡をたどって横田城跡へ、遠野十二郷を治めた阿曽沼氏が、遠野中心部に移るまでの400年近くを、代々、この場所に住んでいたと言う。
  朽ちたお堂のそばに、明らかに人の手で植えられた思う桜の老木が2本。
 今でも花をつけるんだろうか。
 高台のこの城から、阿曽沼氏代々は治める、遠野盆地を一望していたことだろう

 城跡から、車で数分の移動で阿曽沼一族が祀られてるお墓を訪ねた。
 阿曽沼十四代、広長は慶長4年(1627)南部利直と共に上杉景勝攻めに出陣した。
 その留守を狙って3人の逆臣がお城を奪った。
 その後、広長は遠野を奪い返すべ、く再三遠野に攻めいったが利あらずして滅びた。
 3人の逆臣は、その後、ほんの短い間、栄華を誇ったが、いずれも不都合あったとして、利直により、切腹、病死取潰し、お家断絶等々、結局、最後は遠野納めたのは南部侯の一族となった。
 3人の逆臣のうち、1人が、我が一族の先祖に当たることがわかった。
  400年程前に、我が一族の先祖が主君を裏切った事に
             お詫びの参拝をした。

 その後、資料館や鍋倉公園を訪ねて「風の丘」で土産を買った頃には、もう日暮れ近く。
 遠野は「奥が深い」、春までにもう一度訪ねようと思う。

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