朝、いつものように仏壇と氏神様を拝んだ母が「65年前の今日はお前の叔父の村葬の日だった」と言う
昭和17年1月に戦死の連絡があって3ヶ月後”遺骨”が戻っての村葬になった。
「朝早くから沢山の手伝いの人たちが出入れしてあわただしかった」
幼くして嫁いだ母は何もわからずオロオロしていたらしい。当時、村葬には各戸から一名以上の参列、必ず弔旗を掲げるよう役場からお達しがあったからその日の人出は大変だったようだ。
昭和12年に区長を務めた祖父は几帳面に記録を残している。
昭和12年12月の役場からの文書は
海軍志願兵ノ勧誘ニ関スル件 「・・・本年ノ1270名ニ対シ明年ハ1500名ノ多数ニシテ優秀ナル志願者ヲ多数得候様特ニ御配慮・・・・・」
区長の祖父は志願兵の募集にあたり自分の息子を志願させたのだろう。
当時17才で海軍に志願して潜水艦に乗った。一度帰省したときには任務については家族にも話さなかったと言う。
昭和17年に米軍の攻撃で潜水艦は沈没、22才で戦死した。
「村葬」から戻った”遺骨”の箱には小さな写真が一枚だけ入っていた。
志願の経過も泣き言もその父母たる祖父母から聞いた覚えはないから
戦死した息子を誇りに思っていたのだろうか。
長生きした祖母は息子の命の代償として恩給を貰っていたが命の値段としては、どうだったんだろう。
叔父が戦死した翌年に『岩手の頑固親父』が生まれて、間もなく高齢者の仲間入りする。
古くて遠い遠い昔の出来事。