集落のはずれに石碑が立っている。かって地区の土地改良区の前にあったが保育園の建設の際に現在地に移された。
台座を含めて約3メートル、北上川揚水功労者、熊谷長左ェ門翁之碑 碑文には北上川機械揚水事業の概況が記されている。碑は時の村長の功労を称えている。
地元の有志先達が中心となり敗戦直後の昭和21年春の総会で水の不足する地区の補水を目的として着工が決定された。
幹線水路1500㍍、水田の受益面積130町歩 敗戦直後の貧しさと物資の不足する時代に知恵、工夫を凝らして施工されて昭和23年に落成記念碑が建立されている。
北上川から隧道を利用して引き込み第一ポンプで揚水する。径300mmの管の水を75馬力のモーターで汲み上げて数百メートルの掘割を流す。
更に出来るだけ隧道を利用して次の傾斜に引き込み第2ポンプで高所に押し上げて掘割を流し放水する。
広い原野を所有しながら水がないための貧乏を訴えるために裸足で村長に陳情したと言う逸話もある。
原野が開墾されて田んぼが増え、不足がちな地区の水がめ「三郎堤」に補水した。戦後の極端な食料不足の時代に大河から汲み上げる豊富な水は田畑を潤し人も潤した。
旧暦3月15日に行われた当時の火防祭はその喜びに溢れている。
集落ごとに山車を競いあい余興を楽しみどぶろくに酔いしれたことだろう。
当時の写真から喜びが伝わる。
その流れは昭和33年の大干ばつに大きな威力を発揮した。
昭和40年代、国営事業により田瀬ダムから豊富な水が地域にも達し40年代半ば、地区の農業構造改善事業により田んぼの大区画化と共にその役目を終えた。
その遺構は僅かに残された掘割の石垣のみである。