岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

伝えるべき事

2019-07-22 17:53:02 | いなか暮し

  妖艶な貴婦人は山道で突然現れる、今年も山百合の季節。

 戦後も70余年、遺族である事も忘れがちになる。今年も戦没者慰霊祭の案内状が届いた。
 昭和18年1月、潜水艦に乗り込んでいた叔父が、23才でニューギニア方面で戦死した。
 「南海院忠徹ーー禅居士」いかめしい戒名を頂き、葬儀は村葬で行われたと聞いている。

 平成に入ってから宮古市在住の斉藤太一氏は、大戦中に日本海軍は123隻の潜水艦を失い、1万余名の乗員が艦と運命を共にし、そのうち岩手県出身者は49隻の艦で172名戦死したことを調べ上げ、「海に生まれ 海に死す~潜水艦戦没者の記録~」という本を発行された。
 その本の中で、叔父の乗った伊号第4潜水艦は戦線に食料弾薬を運ぶ輸送作戦をしていた昭和17年12月20日、米潜水艦シードラゴンの雷撃により沈没、艦長以下90名戦死 ”沈没地点南緯5度2分、東経152度33分”
 詳細は当時の敵国、アメリカの資料によるところが多いというのが少々残念である。

 叔父が休暇で帰省したことがあったらしいが軍の機密とかで、どこで何をしてるのか、一切話さなかったが、持参したおみやげの、水牛の角で作った花差しを見て、 
 家人は台湾の民芸品だろうと思ったそうだ。
 もう一つのおみやげは拳大の美しい模様のなサンゴだった。

 平成に入ってから、日本最南端の波照間島を妻と旅行したことがある、海岸で叔父が休暇の際にお土産に持ってきたサンゴと同じもの見つけた。
 どこにいっているのか話さなかった叔父は波照間島や台湾など日本の遥か南で行動し波照間島にも立ち寄ったに違いない。
 サンゴを見つけた年の前年は、奇しくも叔父の50回忌の法要をした年で、叔父が私を呼んだのかと胸がいっぱいになったことがある。

 昭和13年、17才で志願し、昭和18年23才に若さで戦死した先祖があったと言うことを子や孫にも言い伝える責務がある。

 小5の孫が、夏休みに広島の平和祈念式典に出席すると言う。
 戦争、平和の意味を良く理解してきてほしい。

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お手伝い

2019-07-18 15:42:14 | いなか暮し

熟してこぼれた、沢山の梅の実 かっては梅漬けや梅酒用にと、実がなる前から予約がいっぱいあったが、昨今は漬ける人も少なくなり、欲しいと言う人もすっかり少なくなって、こぼれ放題 
 水戸の偕楽園の梅は、戦国時代の昔、籠城戦の非常食として植えられたことが始まりと聞く。
 水戸の殿さまがこの有様を見たら嘆くに違いない。

昭和の30年代頃までだろうか、親たちも忙しかったんだろう、子供たちは良く働いた。
 ランドセルを放り投げて遊びに出ようとすると、親たちに見つかり、幼い妹、弟を背中にくくりつけられる。
 負ぶったまま近くの広場で野球や缶けり、背中の弟、妹は夕方までそのまんま。
 田植えになれば、「お前は田植えが上手」とか、おだてられて、毎日、田んぼに出される。
 当時はお手伝いと言うより、一人の大切な労力だったように思う。
 そんな毎日だから、学校の先生も宿題を出さなかった。
 勉強や宿題を家でやったと言う記憶はない。
 (もっとも、手伝いの合間に、勉強している子もあったが・・・後に大きな差がついた)

 孫の勉強塾の送り迎えをした。
 田んぼから出て、迎えに来てくれたと感じたのだろう。
 軽トラックの助手席に座った孫が、運転席のじいちゃんの肩に手を載せて
 「じいちゃん、今度手伝うね、何でも言って、多分じいちゃんより力があると思うよ!」
 そりゃ、そうだ、ご飯もいっぱい食欲旺盛、水泳に柔道、背もぐんぐん伸びている。
 小5生の孫からの嬉しい一言である。

 



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休日倶楽部

2019-07-10 09:08:56 | いなか暮し

 JR東日本の大人の休日倶楽部には感謝している。
 年会費は少々お高いが、4日間乗り放題15000円を利用すると簡単に元が取れる。
 10年程前から利用して、乗り放題パスが売り出されるたびに、時には西日本やJR東海などに、はみ出しながら随分と利用させてもらっている。
 年も年だし、そろそろ会員も返上と考えていた矢先、同じ休日倶楽部会員入りした娘と、會津のお城が見たいと言う小5の孫に誘われ、切符一枚でどこまでもいける旅行に出かけた。
 古い民家や土蔵の好きな娘と喜多方を訪ね、歴史ある街並みに感動した。
 お昼は「喜多方ラーメン」と、人気の店を訪ねてびっくり、長い行列ができている。
 元来、ラーメンと言うものは、生まれ育って食べなれた、地元のラーメンが一番と頑固に思っていたが、喜多方ラーメンにはその思いが覆された。
  太めの麺が実に美味しい。
 翌日、雨の会津若松市内を、循環バス「あかべぇ」号利用で逞しく回った。

 夕方までに家に帰るには少々時間が足りなかった。
 孫もお城の見物不足、となりの県立博物館や會津藩校日新館、會津武家屋敷も見たかったと・・・
   よしよし、「あいづっこ」に負けぬ「いわてっこ」になって 
 次回の大人の休日倶楽部、乗り放題切符が売り出されたら、もう一度会津若松を訪ねよう。

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縮図

2019-07-04 15:17:41 | いなか暮し

 先祖が残し、代々手入れをしてきた、数々の庭木、少々負担に感じながらも初夏、晩秋の年2回、各数日かけて剪定や手入れをする。
 手入れが一段落して、眺める庭は格別、苦労は吹飛ぶ。
  灯篭を模した石積みに、生えた鮮やかな緑の苔が美しい。
 手入れのしない庭は見られたものではない。
 倅には言っている、手入れが出来なくなったら庭木は切り倒してしまえ・・・と。

 喜寿、いったい何才のことなんだろう・・なんて思っていたのに「喜寿の集い」の案内が届いた。
 後期高齢者の仲間入りした、凡そ翌年ころ、数え77歳を指すらしい。


 花巻地方では年祝いの多くは、比較的お客の少ない6、7月に近くの温泉ホテルで行われる例が多い。

 もう、60年も前の出来事、3つの小学校が一つの中学校に集まり、3年を過ごし、上皇様のご成婚の年に中学卒業した。
 僅か3年の中学時代だけなのに、そんな仲間がとても懐かしい。
 記念写真に続いての懇親会の、飲み放題パーティ、二次会、若い頃と違ってそうそう飲める人も見当たらない。

 戦時中の昭和18,19年生まれ、150人ほどの同級生は他の学年に比べて生徒数は結構多い、戦時中の事とて、産めよ増やせよが続いていたせいだろうか。
 同じ学区の現在は、1学年凡そ70人前後と言うから、凡そ半分、
 150人の同級生の内、鬼籍に入った人20%、30人、男24名、女性6名、圧倒的に男性が亡くなっている。
 生徒数にしろ、長生き元気老人、鬼籍に入った人たちの男女割合、すべて日本の現状と同じ、まさに、日本の縮図。
 当日、渡された冊子には幹事が苦労して調べたはずの同級生の住所録がない。
 個人情報とかで公開はできません、とか! 詐欺のエサになる年代でもある。

 翌朝には出来上がった、昨夜の記念写真が渡された。
 宴会の時は、みんな随分と若いと感じていたが、改めて写真を眺めると、そうでもない、やっぱり年寄りの同級会を実感。

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