岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

『竹林』

2006-02-28 21:17:17 | 田舎暮らし

           ようやく伸び始めた我が家の竹林 Cimg0837_1       

  私の住む地域では、寒さのせいか、大きな竹は自生しない。中尊寺、盛岡の八幡様には羨ましいほどの大きな竹林があった。京都、嵐山、嵯峨野に見られる見事な竹に憧れを抱いている。

 毎年、田植の頃になると静岡、富士宮に住む知人から取れたての竹の子が2.3日おきに数回送られて来る。田植の忙しい時期にもかかわらず妻は大きな鍋にいっぱいのお湯を沸かしてアク抜きに追われる。その知人に我が家では竹は育たないという話をしたら大きなダンボール箱で”竹の子の根っこ”送られて来たのは15年ほど前、後10数年はせいぜい親指の太さの竹が数本だけ生える。北風を防ごうと風除けもやってみた。

 おととし突然大きな竹の子が一面に生えてびっくり。増えすぎも厄介と思って竹の子を2本だけ初めて食べた。そして翌年更に沢山の竹の子を予想して竹の子掘りの鍬を用意して待機した。昨年より一段と太い竹の子が生え始めた。ところが12本生えておしまい。そのうち2本はあまり近くに芽を出したためか枯れてしまい残った10本、これは見事に育った径5㎝ほど。竹は本数を増す年と、本数は少なく充実させる年があるのだろうか。

 嵐山、嵯峨野の竹林にはおよびもつかないがそれなりの竹林がこの寒い地域で育っている。一番大きな竹、径は5㎝長さは7,8㍍ 既に使用目的が決まっている。

 この夏、孫と七夕様をつくる

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「菜の花」

2006-02-20 20:29:35 | 田舎暮らし

Photo_1   花巻シニアネット MASA-SAT氏作品を借用しました。早春の岩手山をバックに一面の菜の花が美しい。

 何年か前の2月、熊本・天草から長崎、島原半島へ渡り口之津へ泊まり、翌日平成3年に大火砕流を引き起こした雲仙、普賢岳を見に行った。島原鉄道沿線は暖かい日差しに包まれ眩しいほどに菜の花が咲いていた。そして、翌年同じ2月、今度は鹿児島にいた。長崎鼻、開聞岳を見て池田湖に向かう途中、菜の花が一面に咲いていた。菜の花ショックを2度も受けた。

 畑で咲いた菜の花、こまつ菜、チンゲン菜、チジミ菜、河川敷で咲いたハルザキヤマガラシなど黄色の花の咲く種をせっせと集めた。その種は大五郎4㍑壜1本になった。9月その種を転作地の周囲や河川敷近くのあぜ道、鉄道沿いの道路に凡そ600㍍も蒔いた。11月、色んな種が混じっているから大小さまざまに生育していたので硫安を追肥して後は寒さの冬となった。

 雪解け後に又、肥料を振る。ハルザキヤマガラシは花が散った後の茎が堅く草刈には少々厄介ではあるがどうせ刈り取るのは自分自身だから誰にも迷惑はかけない。色んな野菜の種が混じっているから食用の葉っぱも多いと思う、欲しい人は好きなだけ持ってけば良い。

 後始末はともかく600㍍もの距離に黄色の絨毯が出来ると思うとわくわくする。自家産、自慢のひとめぼれで、小さなおにぎりを沢山つくって孫たちと菜の花の帯を見に行く。その頃は次々と花が咲き一年中でもっとも美しい。

      大好きな季節になる。

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『土蔵』

2006-02-18 20:46:48 | 田舎暮らし

Cimg0841  明治の早い時期に建てられたと思われる土蔵 屋根瓦を替えてからさえも50年、大分痛みが目だって来たので多額の経費をかけてまで修理するよりいっそ取り壊そう。冬の間に土蔵の中のガラクタを片付けて春には重機の力で一気に壊してしまおうと予定を立てた。

 「お振る舞い」と呼ばれる大勢の人が集まる宴席に備えて先祖代々が懸命に備えたであろう漆器や瀬戸物がいっぱいあったが価値のありそうな「お宝」は見つからない。どちらかと言うと置き場所に困ったガラクタが多い。でも、思い出の品もあった。

 幅一間ものひな壇は幼い頃、緋毛氈を引いて花巻人形と言われるお雛様を飾った。家紋の入った”ゆたん”は妻の嫁入りの時の箪笥の上に飾られていた。代々の嫁入りに持参したであろう長持ちは古い順に4、5ヶも在った。

 片付くにしたがって今迄ガラクタの陰になっていた太い柱や梁が次第に現れてきた。四角の大きな基礎石に乗っかった中心の柱は径40cm弱、黒光りしている。おそらく、のこぎりの歯も立たないほど石のように硬くなっているに違いない。取り壊しに後ろめたさを感じ始めた頃、知り合いの大工さんに取り壊しの話をした。「昔の本当の良いものを大事にしないお前は馬鹿だ」といわれた。

 取り壊しは止めた。とりあえず壊れた屋根を葺き替えて物置として有効活用しよう。先祖が一生懸命に集めたであろう ”お宝”は大方壊したりゴミに出したり燃やしてしまったが土蔵は残してこれからも大事に使うことを約束します。

 先祖代々の皆様方 ふつつかな五代目の私をどうぞお許しください。

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『ヒ』が悪い

2006-02-17 08:21:38 | 田舎暮らし

_014  田んぼにはパイプラインが設置されて田舎でも流れる水は少なくなっている。

 「ヒ」が悪い 「ヒ」を喰ったという言葉がある。漢字ではどういう字があてはまるのか定かではない。家族や親戚が亡くなったとき、その家族とその葬祭に出席した人は「ヒ」が悪い、一連の行事の間にそこで食事をすれば「ヒ」を喰ったと言うらしい。「ヒ」の悪い人は旅行、特に神さまのお参りは慎む。万が一、旅行中に大小の災害に遭ったりすると『誰か「ヒ」が悪く無かったか』と言う言い方をする。その災害の犯人と言うことか。家族にお産があれば「産ヒ」(さんび)として同じように「ヒ」が悪いとも言う。「ヒ」が悪い人はお祭りの参加も控える。地域では蘇民祭という危険を伴う祭りがあるが「ヒ」の悪い人は参加どころか運営にも参加しないので、時として祭りに支障をきたす事も多い。

 服喪中だから行楽を控える。お産は不浄といった考え方から始まったのだろう。お産は無事出産を感謝しその子供の健やかな成長を祈るべきだし亡くなった人に対してはそれまでの神さまのご加護を感謝するべきと考えるが

 春の農作業が始まる前にお参りを兼ねての旅行を計画し集落で30人を超える参加申込みがあった。3日後の出発を前に日程、経費の説明をして道中の安全を祈って乾杯した。風邪を引いたり、キャンセルのないようにと話し合い、旅行を前にしたわくわく感に溢れた。

 翌日、その団体長たる私の叔母が急逝した。もろに「ヒ」が悪くなったのである。叔母の家に行っても食べ物、飲物を一切口にしなければ「ヒ」を喰ったことにはならないという逃げ道はあるが注がれたビールに手をつけないで帰れるだろうか・・・ビール好きの私には自信がない。この際、旅行は断念して注がれたビールは思い切り飲んでこよう。悪いことにはそこで食事をした人と、ともに暮らす人は「ヒ」が交じりその家族も「ヒ」が悪くなる。楽しみにしていた妻も同罪、一緒の旅行を楽しみにしていた妻の友人もがっかり。暮にお父さんを亡くした人も含めて今度の旅行、「ヒ」が悪くて旅行を断念した人、計4人

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『山の神さん』

2006-02-12 15:06:22 | 田舎暮らし

Cimg0017  地区の「山ノ神さん」 地区を見下ろす高台に鎮座している

 2月12日地区の女性は「山ノ神さん」のために公民館に集まる。「山ノ神さん」の掛図に参拝、ご詠歌の後は持ち寄った料理とお神酒でおしゃべりを楽しむ。

 「山ノ神さん」は春とともに里に降り田の神となり秋の取入れが終わると山に帰り山の神となる。山と農業の神さまと言われる。古来、ありがたいもの、畏怖すべきものは皆、神さまとした。怖がる夫にとっては山の神(カミさん)と言うことか。

 昭和40年頃の、お振る舞い「山ノ神さん」は参加人数も多く30人を超えるグループも珍しくなかった。公民館もなかった時代、当番の家では何日も前から箪笥を移動し部屋の仕切りを取り外し障子を貼りなおして宴会場つくりに励む。

 宴会に使うお椀、お膳などは”諸道具”と呼ばれ主婦のやりくりで日頃から買い揃えておくことを良しとされその家の主婦としての甲斐性とも言われた。

 当日、料理つくりの旨い男の人の指示で料理を作る。晴れ着を着て三々五々集まった女性が参拝、ご詠歌をして着座した頃、同じ地区内で宴会上手の男性が三味線、太鼓をかかえて登場、宴会を盛り上げる。

すべて、男性は手伝いに回り女性を楽しませたようだ。子沢山の頃、集まる子供も多い。この日ばかりは遅くまで遊んでも叱られない。

 現在、大きな家も座敷もなくなり公民館で行われるが男性は一切、招かれることは無い。どこの家でも男性は留守番の一日を過ごす。

 我が家の土蔵と並んで立つ氏神様も「山ノ神さん」 今年の豊作を祈ろう

 例年、2月12日の「山ノ神さん」が終わる頃は日差しも柔らかになり岩手の春も近い・・・・・

コメント (2)
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