岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

カンクノアメ

2021-01-31 11:02:42 | いなか暮し

  中山間地の、この地域は水路の排水管の設置や神楽の伝承活動に積極的に取り組み、平成14年には岩手中山間地域モデル賞を受賞している。
 管理の行き届いた雪の棚田は美しい。 
       花巻市幸田

「カンクノアメ・・・」今の時期、昔の年寄りが、訛った言葉で喋っていた。
 意味も分からずにすっかり忘れていたが「寒九の雨」とは、れっきとした季節を表す言葉と今にしてわかった。
 寒の入りから九日目に降る雨を「寒九の雨」として豊作の兆しとして喜ばれたという。
 また、寒九に汲む水は薬を飲むときにも良いという。
 寒中に降る雨を豊凶の兆しとする地方や、ほかにもその年一年の豊凶を占うものは数多い。
 山形県庄内地方では、田んぼの雪が強い風にとばされ、雪片が丸くなり、次第に俵状になる。俵が大きければ大きいほど豊作。
 またある地方では正月の鏡餅のひびの入り具合で豊凶を占うというユニークなものもある。
 花巻市の大瀬川では葛丸川にそそぐ沢に、この時期にできるタロシ(つらら)の太さでその年の豊凶を占う。
 太ければ太いほど豊作になるといわれ、最大記録は昭和53年の氷柱の太さは8mにもなった、
 その年は大豊作だったという。

 昔の人々は自然現象を見ては、でき秋を案じていたんだろう。
 今年、寒の入りは1月5日、大寒は1月20日、入りから数えて7日目の27日、この時期には珍しいほどの雨が降った。
 「寒九」が少々ずれて「寒七」だが今年のでき秋も期待できそう・・・・だが

 昨今のコロナ禍のせいもあって外食中心にお米の売れ行きがよくないといわれる。
 そんなこともあってお米の作付け制限が厳しくなりそう。
 ともあれ、雪と寒さの厳しかった「寒」も2月2日まで、翌2月3日は立春を迎える。

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胡四王の強力 ②

2021-01-26 11:37:29 | いなか暮し

 胡四王の強力 ②  「花巻の伝説」  昭和58年発行  及川 淳 著から 

 たとえば、矢沢に嫁に行ったその息女は、夫が妾を寵愛するのに嫉妬して、夫を口説いた。
 夫がそれをしかりつけると、やにわに夫をこわきにかい込んで、家の柱を礎石から一尺余りも上に持ち上げて、夫の頭をその間に挟もうとした。
 夫は平あやまりにあやまって、やっと許されることができた。その妾が即座に離縁されたのはいうまでもない。
 またあるとき、夫の乗馬二匹が、放れ駒となってそのあたりをはね回り、中間どもが取り押さえかねて騒いでいると、つかつかとその場に進んだ彼女は、二匹の首を両脇に抱え込むようにして取りしずめたなど、数々の強力伝を残している。

  胡四王神社の険しい参道の途中に、二つの大きな石が並んで立っており、両石といっている。
 佐兵衛主従が、力比べをしたと言われている石である。
 ウソをついたものがこの石の間を通ろうとすると、二つの石がその間をせばめてしまうので、どうしても通り抜けることができないと言い伝えられている。

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胡四王の強力

2021-01-26 10:39:02 | いなか暮し

 晴れた日には胡四王山から岩手山、早池峰山、姫神山までも望める。
 延暦の昔、坂上田村麻呂が持仏の薬師如来を祀ったのが始まりとされる胡四王山(神社)は稗貫氏の時代にひじょうに栄え、南部領となっても代々の藩主の崇敬を受け、社領も寄進された格式の高い神社である。

 周辺に伝わる伝説も多い。

 胡四王の強力  「花巻の伝説」 及川 淳 著 昭和58年発行 から
    
 慶長の頃、新堀(花巻市新堀)の城主、新堀佐兵衛というものが、この胡四王山に百日の間こもって、大力を授かることを祈願した。
 このとき、佐兵衛は家来を一人供に連れてこもったが、この者は、自分には主人の倍の力を得させたまえとて、佐兵衛が一度祈るときは二度、二度水垢離をとれば四度というふうに、何でも倍々とつとめた。
 満願の日の夜の事である。佐兵衛は夢の中で「これを食せば、なんじがが願いかなうべし」という神の声を聞き、神前の大きな桃を一つ食べた・・と思うところで目が覚めた。家来もその時、同じ夢を見ていたが、神から与えられた桃は二つであった。
 家来が目を覚ましたとき、佐兵衛は、すでに立願成就の御礼参りということで、水垢離をとり、神前に拝礼していた。
 家来もまた、佐兵衛の後につづいて参拝を済ませた。
 坂を下って帰る途中、佐兵衛が力のほどを試してみようとして、傍らの立木に挑んでみると、それをやすやすとねじり倒すことができた。
 佐兵衛にうながされて、家来の者が試みたところ、それよりも大きな木を、造作もなく倒し転がした。
 主従は、それから何度も力わざを比べてみたが、いつも家来のほうが上であった。
 佐兵衛は、それを見て、内心はなはだおもしろくなく、事にかこつけて、その家来を殺してしまった。
 その所業のゆえか、新堀の家では、その剛力は、男子に伝わらず女子に伝えられた。
 
  

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郷の文化も・・・

2021-01-19 08:58:51 | いなか暮し

  寒い寒いと言っても、木々の芽は日ごとに大きくなっている。

 数年ぶりの厳しい寒さのせいもあるかもしれない。
 身近に亡くなる人が多いが、コロナ禍で火葬、葬儀ともさびしいものになってしまった。
 病院で亡くなれば、仏さまは懐かしい我が家に戻ることなく葬祭場、火葬場へと直送、見送る人もごく一部の近親者のみである。

 私たちの田舎では、誰か亡くなると親類や近所の人たちが大勢集まってお寺さんや役所の手続き、葬儀の日程やお知らせの手分け、手伝いの人たちの賄いまで全てをやって貰えるから、遺族はゆっくり仏さまに付添っていれる。
 普通、亡くなった翌日に火葬、その日の夜は「お念仏」、一般の地区の人たちが「お悔み」を持参して一同で「お念仏」をあげる。
 その人数、50~80人、多いお宅では100人ほどにもなる。それぞれが3~5千円も包んでくる。
 もっとも、これだけの人数を集めるような、大きなお宅も少なくなって、昨今は葬儀場に、手配したバスで送迎する。
 我が郷の自慢できる助け合いだと自負している。
 葬儀、お念仏に限らず、結婚式など人は多く集まることができない。
 近所でも結婚披露宴をキャンセルして、双方の家族だけのさびしい結婚式をした例がなん件かある。

 コロナ騒ぎは我が郷近くまで近づいている、いつまで続くんだろう。
 いつかコロナ騒ぎが納まったころ、簡単に済ませることを知った若い人たちが、そのまま済ませるようになり、助け合いの風習が薄まりはしないだろうか。

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-17.5℃

2021-01-10 15:13:08 | いなか暮し

  空にはまだ月が残る明け方、この時間が、もっとも”しばれる”(冷え込む)
 大分長い事生きてきたが、1月の初め、我が里でマイナス17.5度と言うのは初めての体験だと思う。
 現代 寒いと言っても屋外の話、どこの家でも家の中はあったか・・・

 昭和20年代、物資不足に加えて当時の冬は寒さが厳しかった。
 北風を防ごうと、屋根替え用の萱の束を並べて立てかけたり、藁束を立てたりしてもほとんど役には立たない。
 吹雪の翌朝、板づくりの雨戸の隙間から吹き込んだ雪が縁側に広がっている。
 早起きの母さんが、吹き込んだ雪を掃きとり、台所に向かった。
 昨日、夕方に井戸から汲んでおいた水は水甕(みずかめ)の中で厚い氷となっている。
 柄杓を逆に持ち、柄で氷を割る。
 氷を割る音で目が覚めた子供たちもまだ起き出さない。
 氷交じりの水を鍋に入れ囲炉裏の自在鈎にかけて、マッチの火を、つけ木(薄い木の板に硫黄を塗りつけたもの)に移し、杉の葉、豆殻、細かい木、薪と順番に火を大きくする。
 ご飯は「ぬかたき」夕べの内に竃に籾殻を詰めておくと、朝は新聞紙一枚あれば火が付き、ごはんができる便利もの。
 次第に囲炉裏の周辺も暖かくなり、火の中の炭を火種としてコタツに火を移した頃から、年より、子供が起き出してくる。
 こたつに入ったところでテレビもゲームもないから朝ごはんの終わった子供たちはスキーやそり遊びを一日中やっている。
  しばれた朝、樹々は霧氷で美しい風景を楽しませてくれる。
 年よりは雪かき終えて、縁側の干し柿や正月の余った餅を雪にさらして乾燥させた「凍み餅」をおやつに茶飲み話。
 茅葺きの大きな家に囲炉裏とコタツだけの暖房、寒さは現代とは比べようもないが、それはそれで楽しい寒さだったように思う。
 その寒さのせいもあったろう、年よりは長生きできなかった。
 今では90、100才も当然だが、寿命が60才を越えたのは昭和25年の事である。(その年、平均寿命 女性61.5才 男性58.0才)
 

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