岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

渡船場

2020-01-23 15:17:21 | いなか暮し

 昭和の初めに発行された、花巻地方の古い地図を見る機会があった。
 細かい地図をよく見たら、現花巻市矢沢と北上川の対岸、宮野目田力を繫ぐ渡船場が記されている。
 元治元年春、南部利剛(としひさ)公は馬に乗って東和町土沢から現、283号線を西に向かい、駒板から右に折れて山の神様を参り、矢沢十文字を横切って、矢沢船場(ふなば)で北上川を渡り花巻に出たと言う記録があるから、当時から重要な船場だったと思われる。

 対岸の田力から、矢沢に嫁いだ母の実家に、仏さまに供える彼岸饅頭を持って、泊まりに行くときは、船場で、大きな声で「おーい」、と呼びかけて対岸の番小屋にいる船頭のおじさんを呼ぶが、大河の向こうの人を呼ぶのだから中々声が届かない、耳の遠いお爺さんだったら最悪。
 ようやく声が届いて「おー」と言う声が聞こえて、番小屋から船に降る姿が見えて、ゆっくりと舟が向かってくる。
 「おめぇは、どこのワラスだ・・・」 「ほう、”安左衛門どー”の孫か・・・・」
 彼岸の頃の北上川は雪解けで増水し、上流からは畳位の、大きな氷の塊が次々と流れ、船べりを「ごつん、ごつん、ごしごし」と不気味な音に少々緊張。

 矢沢船場を訪ねたが、川の浸食の激しい田力の方は護岸工事がされて船場の面影はすっかりなくなっていた。
  船場近くには、数基の石碑が建っている。
 ほとんどが馬頭観音で皆、川面を向いて建っているから、船で対岸に渡ろうとした牛馬が遭難し、供養に建てられたものだろう。
 矢沢船場での、人の遭難は聞いたことが無いが、当時、渡し船の事故と言うのはあったらしい。
 文化9年(1812)、矢沢船場の下流で別れる、猿ヶ石川の安野渡場で大田の清水詣り一行を乗せた船が難船して15人死んだという記録もある。
 昭和51年(1976)矢沢船場は数百㍍下流に「花巻大橋」が完成したために長い役目を終えた。

 廃止される、その直前だったと思うが、どこかの写真クラブか何かの団体が、船で行く花嫁行列一行を仕立て、写真の撮影会をしたことがある。
 昔々、船で渡って16才で嫁入りした母の花嫁姿を彷彿とさせる。
 どなたか、その時の撮影会の写真をお持ちの方は、是非、お見せ下さい。

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免許更新

2020-01-20 14:32:13 | いなか暮し

 年の初め、決まって同じ人からいただく御年始
 僅か2,5㌢ほどの、小さな小さな七福神と招き猫、金色の小判の入れ物に鎮座しておられる。小正月も過ぎたのに誰も中の飴を取り出さない。

 昔の人だから92才と言うのは、数え年の事だろうとは思う、腰も少々曲がってはいるが元気に農業に励んでおられる。
 昨年暮れの免許更新、認知機能検査も難なくパスして新しい免許証を手にしたと言う。
 更新の講習を受けた自動車学校では先生方が感心して喜んでくれたと、

 高齢者の仲間入りして間もなくの免許更新で、不甲斐ない点数で通過したわが身としては恨めしい話である。
  冬の農閑期で暇を持て余すこの頃、脳の退化を抑えよう・・・・
 成長とともに使うゲーム機も、より高度になり、今では使わなくなった初期のゲーム機を孫から借りて、心機一転脳トレに挑戦を始めた。
 一桁の足し算、引き算が上から次々に出てきて下から消えていく、消えた答えを書きながら、上からの問題を記憶する。
 かと思えば簡単な童謡、フリガナのついた楽譜を見ながら鍵盤を押すが、中々本来の曲にはならない、と思えば
 動き回る、難しい漢字を大急ぎで次々に書いていく
 そうした結果がすぐに点数で現れ、合格点以下だとやり直し、ランク据え置き、ようやく合格点に達すると更に難しくなる。
 翌日、ゲームを開くと何日目、何時間目ですとプレッシャーをかけられる。
  この程度の点数では、次回の更新は赤信号、免許返納を迫られるかも・・・・・と更に焦る。

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竹スキー

2020-01-17 16:12:21 | いなか暮し

  庭の柊に積る雪・・・今年の冬、こういう風景は少ない。
 雪かきがないぶん、楽と言えば楽ではあるが、その後に来る季節外れの異常気象が怖い。

 宮城県の花山国立青少年の家のスキー合宿に参加した小5生が雪が少なかったが、僅かの雪で竹スキーは楽しかったと。
 竹スキーが懐かしい。
 竹を割って作るスキーは花巻地方には大きな竹が育たないから、径が1~1.5㌢ほどの細い竹に、錐で穴を明けて5~6本ほどに針金を通し平たく並べて50~60㌢ほどに切り揃える。
 並べた先の方を囲炉裏の大きな鍋の湯にしばらく入れてから、ゆっくり先を曲げてスキーの形にする。
 当然、大人に手伝ってもらうことは無い、こういうことはどちらかと言えば勉強のできない子の方が上手だった。
 翌朝、小学校に向かう時は忘れずに竹スキーを肩にかけて持参、竹スキーのできるところはどこにもある。
 田んぼや畑の出入口は格好のスキー場となり高台にある小学校周辺は坂道が多いからどこでも滑れる。
 秋、裏の田んぼに水を張っておくと冬休みにはスケートリンクとなる。
 所々に残った稲株にスケートカが乗り上げると急停止するから要注意、男の子はスケートを皮のバンドを使って長靴に巻きつけ、女の子は”竹ガッパ”
 竹ガッパは径10㌢ほどの竹を二つに割って、割った竹の切り口の方を氷面にあてるようにして、背面に紅い鼻緒をつけて下駄のようにしてスケート替わりにした。
 大きな竹はなかったので竹ガッパは町に出かける大人に頼んで買ってもらったのだろう。
 竹スキーやってスケートや竹ガッパでいっぱい遊んで家に入る頃にはすっかり雪に濡れてコタツに入ると湯気がボーボー。
 小正月のみず木団子をコタツの火で焼いて食べる味は懐かしい。  
   古き良き昔・・・・・

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天赦日

2020-01-14 17:25:34 | いなか暮し

  花巻市矢沢の宮沢賢治記念館入口に通じる階段は360段余
 「雨ニモ負ケズ・・・・」の詩が一段に一字づつ、太い木を積んだ階段は一段、一段が気持ち良い。
 「・・・・・・味噌ト少シノ野菜ヲタベ・・・・・」頃から次第に息が大きくなる、
 見上げてもまだてっぺんは見えない、"ハァハァ・・・”

 「・・・・ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ」 到着 K・高齢者には、ほど良い運動になる。
   歩きに自信のない方は、どうぞお車のまま記念館にお越しください。

 ある新聞のコラムで今年、1月22日は最高の吉日と書かれていた。
 一粒万倍日と天赦日(てんしゃにち)と同じになる日は、今年2日しかないらしい。
 文字通りの一粒万倍日はわかるが天赦日とは何ぞや、・・・・
 暦の上での最高の吉日とされ、この日は百神が天に昇り、天が万物の罪を赦(ゆる)す日とされて、最高の吉日である、そのため天赦日のみ「万(よろず)よし」とされる、とネットに書いていた。
 折角の吉日、「万よし」、、、それでは何から始めようか、結婚、入籍、プロポーズ、出生届、引越し、事業の開始、口座の開設、出資・・・と、この辺はまったく関係なしか、、手遅れ、、いや今日、出会う人は何か幸せを、、、一日中、コタツで年取ったばあさんと向かいあっていては出会いも何もない、できることと言えば財布の新調、宝くじの購入、種まき、、折角の吉日ながら夢は大分、小さくなる。
 何か始めるには一粒が万倍となるこの日、借金だけは避けた方が良い、増えること確実・・・とコラムは結んでいる。

 

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「泉三郎忠衛公碑」

2020-01-11 11:00:40 | いなか暮し

 散歩の足を伸ばして、久しぶりに本宮山(もとみや山)の、三郎堤を築造したとされる「泉三郎忠衛公の碑」を訪ねた。
 訪れる人も無くなったんだろう、笹が伸び放題、道の跡かたも不明、石碑付近には松の倒木、お堂は形こそあれ、荒れていたが、「八雲立つ出雲八重垣・・・・」の碑や、あえて名前を伏せた人のお墓と言われる「槍塚」は笹の中に見つけた。
  「泉三郎忠衛・・・」碑は高さ3メートル余り、昭和2年の建立と記されている。
 昭和2年頃、近くを通る釜石線、当時の軽便鉄道が開通して間もない頃、小山田駅に元気な駅長さんがいた。
 同じころ遊園地を開園した花巻温泉にあわせて、三郎堤一帯を一大観光地にしようと計画したらしい。
 今、三郎堤一帯の老木となった巨大な桜は、多分この頃植えられたものだろうと思われる。
 開園行事だったろうか、「泉三郎・・」碑の建つ小高い岡(本宮山)では相撲大会が開かれ、花巻温泉の芸者さんも来て大賑わいだったと、先年亡くなった近所の古老が「親父の肩車で見に行った・・」と話してくれた。
 一大観光地にはならなかったが、春には桜が咲き、秋には白鳥が飛来し訪れる人も多い。

 地元では泉三郎忠衛公の功績を信じて疑わないが、兄に追われた、公の身の上に同情した数々の伝説も多いようだ。
 北行伝説には、義経に忠衛公は3人の息子と共に同行し、川合の江繋に三男、次男は野田村、長男は久慈の吉田城に残し、忠衛公は心置きなく義経に同行、北へ向かった・・・・・
 又、盛岡市本宮、泉屋敷の泉神社にも忠衛公が祀られている。
 泰衛に追われた忠衛公は北上川を上り、主従と共に飯岡城を訪ね本宮に屋敷を構え家来と共に農地を耕し安隠な生涯を送った・・・・・
 更に遠くは石川県にも及ぶ、文治5年(1189)忠衛公が奥州平泉から移植したと伝わる能登アテ(あすなろ)が今も成長を続けて巨大となった”あすなろ”は、今、石川県の木、門前町の天然記念物に指定されていると言う・・・・・。
 
 集落の新年会の時、「本宮山が荒れている」と知人に話したら、伸びた笹や雑木を、春までに刈り払いして少しでも整備しようと言うことになった。

 

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