岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

金婚記念旅行

2022-11-28 10:48:49 | いなか暮し

所用あって年に8回盛岡に出かける、早い時間なので「でんでんむし」(循環バス)は走っていないので毎回歩いて、開運橋を渡る。
 橋から岩手山を望む、「今日のご機嫌いかが?」雨を前にして今朝はいつもの美しさには欠けるが、それでも雄大に迫る。スマホを向けてる人は毎回何人かは見かける。
 ある集会で隣の席の先輩がそっと聞かせてくれた「今週山陰山陽方面旅行してくる、コロナ禍だからこっそりと・・」「金婚記念ですね」「いやー・・・」
 数日して先輩の奥さんからラインが、海の見えるレストランらしい、食事風景「ホテルかな、旅行はまだだし・・」続いて青空の姫路城の記念写真、もしかして、この間言ってた旅行?飲んでる席での会話は出発日時を聞き間違えたらしい。
「明日は宮島に行きます」翌日晴れた宮島、おなじみの景色の前での記念写真が送られてきた。
 自分も結構観光地を巡り歩いたと自負しているが宮島は訪ねたことがない。
 いつか仲間で宮島観光の話が出たが時間の都合でいったん空路九州へ行き博多から広島へのコース案がでたが「いや、福岡まで行くんだったら、いっそ九州を観光しよう」と、その旅行は九州観光に変更した。宮島は遠いといっても同じ本州と思ったが、その後機会に恵まれず「行かずじまいの見残し観光地」となってしまった。

 翌日、先輩夫妻は、出雲大社の大しめ縄の前で記念写真、そして足立美術館 
 ここにも口惜しい思い出がある。大分昔の話、日本海側 天橋立、鳥取砂丘、大山を経て念願の出雲大社にお参りした。
  お参り済ませて玉造温泉に向かうタクシーの運転手さん「足立美術館には寄らないんですか?・・・」「後悔しますよ」、その時は今夜の「どじょうすくい」が楽しみで、頭がいっぱいだったかもしれない、美術館は素通りしてしまった。のちに足立美術館の素晴らしさを聞くたび後悔する「もう一度行けばいいさ・・」とはいえ岩手から宮島も足立美術館も恐ろしく遠い。
 翌日夕方、奥さんからライン「帰ってきました。楽しい旅でした」
 夫婦が二人とも健康で金婚過ぎて遠くまで旅行できることは素晴らしい。
 先輩ご夫婦の「出雲大社、大原、足立両美術館、姫路城、厳島神社・・旅行」お帰りなさい。
 おかげさまで私もいっしょに旅をした気分に浸っております。
 これからも元気で仲良くお過ごしください。👏拍手!!

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お世話になった人々  1⃣

2022-11-24 17:45:21 | いなか暮し

 暖かな日中、田んぼで腹ごしらえした白鳥は夕暮れと同時に近くの三郎堤に戻り、数百羽の白鳥が夜を過ごす。
 静かに夜を過ごせばいいものをガーガー、ギャーギャーとおしゃべり、白鳥の湖は”騒音の湖”と化す。「近所迷惑」
 長く生きていると沢山の人々と出会ったことが懐かしく思い出される。
 その昔、知り合った人はお世話にもなり尊敬、そして楽しい人だった。社長職を後輩に任せた中堅の会社の会長、当時70代半ばかな、「会社を見においで・・」と誘われ、前日にお宅の近くのホテルに泊った。
 翌朝、まだ早い時間に迎えに来て「まだ寝てるのか・・・資源のない国の若い者は外国より働かないと負けるぞ・・・」一喝。
 会社に案内してもらった。会長室には決裁を待つ文書がいっぱい、会長は突然屈伸体操を始めた、「君は真似しない方がいい」真似したら腰を痛めるからと、40代の私にこう言う、、この元気さには訳がある、海軍と聞いたような気がする、兵隊生活が豊富「私はね、あの松下幸之助さんより優れたことが一つあるんだよ、体力は絶対に負けない」と
 当時、最寄り駅のホームの掃除をかって出て、毎朝、夜明けと同時に掃除をしているおじいさんでもあった。
 そんな元気爺さんだから講演も人気で、ずいぶんと頼まれたらしい。
 「私の先祖は、あの国定忠治に博打で負けて大変な目にあった、あれは侠客ではない、ただの悪党だよ」聴衆を笑わせてからから時には予定時間を超える、講演の終わりは「先祖に対して私はずいぶんと悪いことをした、今お盆にはお墓に行って泣きながらゴシゴシお墓を洗う」と自分も涙を流しながら講演を終わる・・・・と、大きな拍手。
 戦後に大きなヒット商品を開発し昭和30年頃には東京の街を外車を乘り回していたという、やがて商品は外国製に押され、そのあと省力化機器を開発、再びヒットして勢いを取り戻した。晩年一線を退いた後も、もう一度、大ヒットを目指し会社を休むことなく出勤、日曜、休日でも思いつくと技術担当社員は呼び出されると、嘆いている社員もいた。
 ある年のボーナス支給条件、会長は「今年中に先祖のお墓参りする人にやる」・・・と言ったとか。
 奥様に先立たれた。「僕はこれを亡くした」と私の右手をさすって涙ぐんでいた。
 90代半ばまで発明の夢を持ち続けた明治人は、3度目の発明することなく逝った。その後の会社も順調と聞いている。
 いつか花巻に来た時にでも訪ねたことがあるだろう、「花巻の大沢温泉はいいところだね」と言っていたが、一緒することはなかったのが今となって、口惜しい。 

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50才

2022-11-20 15:19:49 | いなか暮し

  雪がそこまで来てるのに花が色々・・じつは花や野菜つくりが好きな老妻が取り寄せたもの、今からハウスで寒い冬を越して、来年春に畑に移し、夏から秋にかけて庭にいろいろの花々を咲かせる計画らしい、これぽっちの 花が数千円、好きな芋焼酎にしたら何本買えることか。
 お父さんが50才の誕生日を迎えたと別棟に住む孫がケーキを届けてくれた。
 これで3人の子供たちは皆、50代となった、末っ子が50才と言う事は両親もそれなりの年齢になったということでもある。
 息子が50才・・・・自分の50才の時は何をしていたんだろう。
 専業農家に疑問を感じて、同じ考えを持つ同級生と二人、40代半ばに小さな会社を興し毎日奮闘努力の毎日だったろうと思う。
 東京のある会社が当時、賃金の安い東南アジアに進出を目指したが、特殊なプレスの海外移転を当時、国は認めないので東北に進出を目指した。
 ある顧問会社の専務が近郊の出身の縁で話が進み農閑期の2年の研修を重ね、資金の多くを借り入れに頼り、友人の元、豚を飼ってた建物をすっかり見違えるはどのリフォーム、45才で個人会社として創業した。
 スコップ仕事や重いものを持つ仕事はいくらでもできるが精密機器を扱っての細かい仕事が果たしてできるのか、周囲の関係者は、はらはら、ドキドキだったろうと思う 
 まじめでよく働く従業員に恵まれ、東京の会社もよく社員を派遣しくれて、指導を受けて頑張りが実り、僅かながら初年度から黒字を計上し2、3年ほどして会社組織とした。
 社員も25人程となったが下請けの悲しさ、仕事の量の多寡は日常茶飯事だったが、どんな無理をしても納期を守り続けた。
 子育て、育児、PTAや農作業の関係の欠勤は大方、認めたために農村部の優秀な労力に恵まれ仕事の多寡を乗り切り、各種の厚生は総て加入した。24時間、通しで電気の点いてる会社は珍しいとタクシーの運転手に言われたことがある。
 旅行、宴会好きな経営側は毎月の飲み会は街に繰り出し、慰安旅行は毎年希望をとって北海道、黒部、奥飛騨・・・どこまで出かけた。会社をたたむと決めた年には最後の機会になると紅葉の京都旅行は、みんなに喜ばれた。
 60才近くになり自分は田んぼの仕事もあり引退も考えていたが、同級生は子息を親会社の研修に出していることもあり会社継続と決めて近くの空工場の買収を計画したころに親会社が中国への進出を決定した。
 当時の中国は安い労働力で世界に進出の最中、素人経営でとてもかなわないのは目に見えてると、思い切って会社を閉鎖と決意した、ど素人二人が大手向けの部品作って微々たるとはいえ利益を出せたのは親会社もビックリの経営努力があったと自画自賛している。  会社を突然畳んだので、周囲では倒産したと同情もしきりに聞かれた。

 会社を続けた15年ほどは、仕事の性質上妙齢の女性がいっぱい働いていた。青春の残り火がくすぶる夫が多くの女性とともに仕事をしている。
 家で農作業を独り守り続ける妻は心穏やかならざる日々だったろうと、今更ながら心からお見舞い申し上げる、おかげさまで何事もなかったような・・・・・58才、帰農した。

 倅も元気で50才を迎えた、30年間同じ会社で、出勤も早く、帰りも遅くまで頑張っている、懸命に働いてくれてるのだろう、孫たちはまだまだ学業が続く、同い年のお母さんと力を合わせて孫たちを立派に成長させてほしいと願う。  
 

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「三番叟」

2022-11-17 09:54:01 | いなか暮し

 晩秋の「こぶし」に枯れ葉がわずかに残る頃には来年春の準備ができている。フカフカの綿毛に包まれた大きな「花芽」が現れた。
 晴れた今日も冷たい風が吹き付け、岩手山の雪も下降を続け、もう網張温泉近くまで白くなっている。
 中2の孫が「今日学校で神楽を舞って校長先生にも褒められた」と、喜んでいた。
 胡四王神楽の「三番叟」を鳥兜に黒面をつけて、お父さん、おじいさん年代の神楽の大先輩の太鼓、笛、手平鉦と舎分(言い立て)に合わせて全校生徒の前で10分余りを舞った。

 2、3才頃、お正月に家々を回る権現舞にすっかり取りつかれ、図書館から神楽ビデオを繰り返し借りては真似をしてたが、そのうちに月一回の大迫「神楽の日に通うようになり、お土産団子を売るおばちゃんとも顔なじみになり、時々一緒になるご夫婦からは「頑張って覚えるのよ」と立派な白扇を貰ったこともある。
 H27の神奈川、鎌倉芸術祭 建長寺公演には「爺さん」と胡四王神楽の追っかけも体験した。
 地元「胡四王神楽」を習うのは小学生になってからと言う事もあって先輩の練習を見に何回も付き合わせられ、そのうちに見よう見真似で舞うようになり、テープに合わせて自分勝手な振り付けで権現舞をやるようになり、集落行事や敬老会、お祭りにも呼ばれては褒められ喜んでいた。
 小学生になり念願の先輩のお兄さんお姉さんたちと習うようになり鳥舞、三番叟、権現舞も覚えてお祭りや郷土芸能祭にも参加し、中学に入ったら憧れの八幡舞も習える・・と思っていた矢先、コロナ禍が始まり祭りや催しは総て中止となり呼吸激しく舞う神楽の稽古はパタリと止んだ。
 コロナ禍が長引く間に神楽の先輩方は高校、大学とすすみ一緒の仲間も減った。
 コロナが幾分の落ち着きをみせた今年秋、数々の制限もあったが花巻まつりが3年ぶりに開かれ、神楽パレードも復活、人気の権現舞も行われて久しぶりに権現舞を舞った。
 そして今回「民俗芸能鑑賞会」中学の勉強の一環だろう、全校生徒の前で舞うという機会に恵まれた。
 身長も大分伸びてもまだ伸び続けるのか「膝が痛い」という、成長痛とか言うらしい、そのせいもあってか、「舞が幾分固い」ように見えたが「上手に舞えた」と言う。
 胡四王神楽はこの後、「伝統芸能伝承大会」や「青少年郷土芸能フェスタ」にも参加、大会を盛り上げる。

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反省、遅らばせながら・・

2022-11-13 16:08:18 | いなか暮し

  今年の夏は異常に雨が多かった、早池峰の山小屋の管理人が言っていた「山で雨のまったく降らないのは8月にたった2日だけ・・」
 雨の合間に大急ぎで殻を残して飛び立っただろうセミ、そういえばこの夏、セミの鳴き声が少なかったような・・・・その分、好天の続くこの秋、10月末の強い霜で木々の葉は色づきは早かった、郷の紅葉も落葉待つばかり、雪が近い。

 「元気でやってるか?」いつもの特徴ある声で尊敬する先輩が訪ねてきてくれた。2才上の先輩は、年に1、2回我が家を訪ねてくれる。
 特に遠慮とか気遣いのいらない先輩はいつも通り、にわかに片付けた食卓に座って「いつも悪いな、灰皿を・・」酒類は一切口にしない先輩だがタバコはヘビー級、見当たらない灰皿の代わりの皿で一服。
 サラリーマン時代に着々準備された農場経営は軌道に乗り、経営はご子息に任せている、近代的な大型機械と広大な農地を利用しての農場は県下トップクラスの規模の大型農場を経営している。話題の中で「新聞では・・」「本には・・」とよく出てくる。実に世の中の見方に詳しい、国内外の政治から社会、等々。
 ユーモア交じりの話に、妻も古くから知る先輩の話に頷きながらタバコの合間の茶を入れてくれる。
 話の中で「息子は酒を飲まない」と、、先輩も酒は一滴もやらない、聞けば戦死したお父さんも酒はたしなまなかった・・「都合、三代 酒は飲まない」と笑って聞かせてくれた。
 3時間ほど話して、大きなピカピカのクラウンで帰る。「小さい車は、怖いから・・」と。
 先輩の話はいつも大きな余韻が残る。「三代、酒は飲まない」
 比べて、晩酌は毎日タップリ、飲み始めてから約2時間位は人間としての役に立たない毎日、1日2時間✖365日 年に700時間もの無駄な時間を過ごしている。
 700時間✖20才から、今日まで60年 気が遠くなるほどの長い時間を無駄にしてきた。
 加えて我が家は息子まで三代続けての愛酒家系。答えは明らか、その時間、先輩は本を読み、新聞を読み砕き、経営する事業に生かし、こうして人を指導までしてくれる。
 昨今は読んでも役に立たない、忘れるからとめっきり本を読まなくなって、新聞も斜め読み状態、ニュースはスマホの軽い話題に走りやすい、これでは遺憾、反省、今更尊敬する先輩の足元にも及ばないが、まずは今日から晩酌を控え目にして・・・・・
 秋の夜長、反省、後悔、遅くらばせながら・・80の決心  (いつまで続く?)

 

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