岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

「積善余慶」

2010-04-22 21:02:19 | いなか暮らし

Cimg6528  孫の誕生記念樹の垂れ梅、開花始まりが4月7日で22日になってようやく満開、ところが明日23日は雪の予報・・・・・

「積善余慶」
 親類の共同墓地にある我家のお墓は旧態以前、土葬の習慣から広い敷地に墓石が7、8基 土葬の名残でお骨堂が無かったので、この春、将来お世話になるであろうお骨堂と一緒にお墓を整備した。

 この機会にルーツをまとめた。
 僅か五代、200年ほどの歴史と言えど実に多くの人たちが関わりあっている。
本家の娘と結婚して分家になった初代は1835年生まれで良く働き、本家に住み込んで働く「若いもん」だったらしい。
 明治の時代に青雲の志に燃えたであろう、遠く九州や北海道に渡った人も居る。
 結構長生きした二代目は酒好きだが彫刻の腕はめっぽう良かった人、南部馬の育成で大金をものにした人や赤ちゃんで亡くなった人、若くして潜水艦乗りになり戦死した人。
 墓碑の一つには無縁仏があった。碑面はよく読めなっかたが何人かの仏を祀って居る。
 ルーツの流れの中で共通していたのはいつの時代も人助けは良くしたらしい。 

 調べたルーツはA-3、一枚にまとめて古い写真も入れた。
Cimg6527  春の彼岸に仏様拝みに来た人たちは、寺の住職が下手な字で書いた過去帳よりも好評。

 整備の出来たお墓の前で、妻は
「私がお骨堂に入るときは、お骨と一緒に草取り鎌も入れて欲しい」という。
 あの世でのんびり過ごすのは性に合わないから蓮の咲き乱れる下の草取りをすると笑う。
 働き者のお前らしい。

  今日も大家族に囲まれ安穏に暮らしている。
 「積善余慶」 先祖が善行を重ねるとその報いとして幸せが子孫にまで及ぶと言う。

 人助けを良くした先祖、働き者の老妻に感謝。

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「最後のご奉公」

2010-04-14 18:16:35 | いなか暮らし

Cimg5940

「岩手の頑固親父」と同じ年代の彼は60代、古希に限りなく近いはず。
 お世話になった地区、集落に「最後のご奉公」をと集落の中心にある水田耕作放棄地解消に立ち上がったのは昨年21年初秋。
 値上がりの見込み違いから市外在住の所有者が耕作を放棄して荒れるに任せたその田んぼは1.1㌶余、景観はもとより害虫の発生や小動物の棲息、集落に害を撒き散らしていた。
 Cimg5237
Cimg5240  左・放棄地のヤナギは春には花が咲きその種は綿毛に包まれ集落のいたるところに飛び回り田や畑に芽をつける厄介者である。 
 右・住宅地に近い場所にもかかわらず雉や狸、狐までも生息していた。

 知合った関係機関の職員に相談、お上から補助を受けての復旧作業は折からの政権交代による将来不安で集落全体に呼びかける間もなく即、決断された。
 決断から1ヶ月、「耕作放棄地再生利用緊急対策事業」はスタートした。
 人海戦術によるヤナギや雑木の伐採作業は集落に呼びかけて僅かに3日半日、老若男女上は80才から子供まで計70人ほどの出役で永年の荒廃で大木となった木々を伐採した。

Img_1718 Cimg6072 左・伐採初日延々広がる山を前に一体、本当にこの木を退治できるのか不安がよぎる
 右・多くの集落の人たちの力で僅か3日後には先が見えてきた。
 出役した人達は奉仕作業の積もりだったが後日、お上から関連作業を含  めて70万円近い日当が支払われ臨時収入に喜んだ。
 

Cimg6053_2 その後、工事を依頼された開発公社のより抜根や排水路設置、 加えて細かい暗渠工事を経て整地され半年前とは比較できないほど立派な圃場に生まれ変わった。
総額300万円にも及ぶ耕作放棄地再生だったが広い圃場には道路や池も含まれ補助対象から除外された分は彼の負担となったらしい。年金世代の彼もちょっと苦しいとも・・・・

Img_0286 伐採、焼却の後の根は重機により抜根された。Cimg6115
 春、ヤナギや雑木が処理された広い圃場は乾燥を待って平らに整地されたあと地元生産組合に作業が委託されて大豆畑が誕生する。

 復元された耕地を見て、彼は「最後のご奉公」に予想外の出費や苦労を忘れて喜んでいる。
 腰痛もちだと言う彼に
 
「元気で頑張って!!」  拍手を送る。

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「持てる(不)幸せ」?

2010-04-12 16:00:53 | いなか暮らし

Cimg6516 Cimg6510 岩手の3月は記録的に日照時間が少なく4月になっても天候が回復しない。
 それでも春を感じた花々が咲き始めた。爛漫の岩手の春はそこまで来てる。

「持てる()幸せ」
 先祖が本家から広い敷地を貰って分家となり700余坪の屋敷内には末代までの繁盛願って土蔵を建て屋敷林にはいつか役に立つ日を信じて杉やヒバを沢山植えた。
 母屋、離れ、納屋に物置、車庫等々を取り囲むキャラの生垣は100㍍にも及ぶ。更に、面積は富であると信じて田んぼを買って経営面積を拡大した。

 時代変って広い敷地には強い風が吹くたびに杉の葉が散乱し掃除に追われる。
 納屋や土蔵の手入れも必要、いっそ取壊そうにも頑丈な土蔵はそこそこの機械で壊れるような代物ではない。
 米余りの時代、広い田んぼから収入は少ないうえに4割も生産調整されて作付はお休みでも改良区の水代(賦課金)は請求され、滞るものなら悪徳業者も真青なほど高利が課せられる。
農業者ゆえの公職も盛沢山、そして後継者はサラリーマン、そうそう手伝って貰えそうもない。
うーん「持てる()幸せ」か
   どうする「頑固親父」

あれっ!!
 
いつもの張り切った「頑固親父」・・・
             
 どうした?

 そうか、今年の春は不順な天候のせいか持病の腰痛が治りきらない。通院に加えて操体法、更には噂のマッケンジー体操、温熱療法・・・・etc

 かいあって
  腰痛も徐々に快方に向って、やる気になって来た。

 屋敷林は犬や孫たちの格好の遊び場、自慢の長い生垣、広い田んぼや畑のお米や野菜を待ってくれてる多くの消費者がいる・・・・・
  よーし 
 「今年も やるぞ!!」

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「人口ピラミッド」

2010-04-05 18:10:48 | いなか暮らし

Cimg6475  斜面の松は小学校当時、学校正面に向かう石段の両側にそびえていた。両親に手をひかれて入学したかは覚えていないが大きな松だけは記憶に残っている。今、運動広場として賑わっているがここにもマツクイムシの被害が及び今年の春は緑の松にはならない。

 正三角形に近い形が望ましいと言われる「人口ピラミッド」その形が崩れて久しい。
 今、そのピラミッドは一本の木の形に似ている。頭でっかちに茂った葉(高齢者)と細い幹(少子化)は年々細って一人の女性が産む子は1.37人とか。
 比べて繁った葉、戦後生まれの団塊世代が高齢者層にこれからどーっとなだれ込んで細い幹は今にも折れそうになる。
 今から35年前の研究では2024年に日本の総人口は1億4000万人に達し飽和状態になると警告したが2010年現在1億2700万人、既に人口は減少し始めた。
 ある推計によると2100年あと90年後には明治末期と同じ4800万人まで激減すると言う。
 人口とは気候の変動、医療科学、人間の価値観の変化など種々の要因で止めようのない大きな波として作られていくものらしい。

 作家の松本氏が言う。「人口増にまかせて破壊された自然、人口の減少と共に日本はいま静かに崩壊しつつある。社会が衰弱して行く時その兆候はまず地方に現れる。
 この国を人体に例えたら古くなった毛細血管が詰まり末端の細胞、地方から壊死しつつある。その影響はそう遠くない将来、国の心臓部である大都市の及ぶ。」

 地方、特に農家を取り巻く現象 数年前までは昭和一桁世代に頑張って貰うとしたが現在既にリタイヤ、次は昭和10年代生まれ、ところが10年代生まれもリタイヤが急加速、彼らのリタイヤの後の後継は一部の団塊世代が引き継ぐが以後の農業後継者は極端に減少する。不足するお医者さんより更に少ない。
 3月末から4月始めにかけて地域の各種の農業団体の総会が開かれたが出席者の平均年齢が上昇、役員の引き受け手も少なくなった。

 ぴっか、ぴっかの小学1年生。
 この春、我が集落110戸からたった一人。

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「村の雑貨屋さん」

2010-04-02 18:30:59 | インポート

Cimg6454 今年の春は遅い。雨や雪の日が多く農作業の遅れも気になるがそれでも時折、射す日差しに「だんちゃん」も気持ち良さそうに居眠りをしている。

何軒かあった村の雑貨屋さん
 「オイマサン」と親しまれたお店は狭い店内に食料品から文房具、衣類まで売っていた。さしずめ村の総合百貨店、小さな戸棚に並べられた万年筆、インクの出の悪いボールペン、色とりどりのノートや手帳に子供達は目を輝かせて新学期から着るシャツやパンツを買ったもらう。
 向かいの魚屋の「セイゾウサン」は料理上手と、お人好しな仕出し屋さんで人気。
 隣の「オイチョウサン」は酒、たばこ、郵便を扱って朝早くから豆腐つくりの石臼が廻っているのがガラス越しに見える。
 夕方には豆腐を肴に一杯飲みの人たちで賑わう。そこから1キロほど離れた駅近くの「オイワサン」も酒、たばこを商い、ここでも夕方仕事帰りの人たちが一杯飲みにやって来ては向かいの魚屋「エンツァン」から刺身を取り寄せて賑やかになる。
 並びの「サイチャン」のお店では菓子や野菜の種を商っていた。この三軒で当時駅前商店街をなしていた。
 少し離れた集落には「サトーサン」「ゴダイドウミセ」、隣の魚屋さんは自転車で市場から魚を仕入れてくる。
 鎮守のお祭りともなると隣村の魚屋さんも手伝いに来て、狭い店内から出て、外で刺身を切っていた。

 やがて田んぼの真ん中に新幹線駅が忽然と姿を現し次第に家が増え人口も増えたが若い人達は仕事帰りに町場の大型スーパーで買物をする。
 噂のスーパーがあれば20キロでも30キロでも車を飛ばす。
 そして近くにコンビニが誕生すると
 雑貨屋さんの買い物客を根こそぎ奪う。

 かくて地元の雑貨屋さんはポツリポツリ店を閉めることになる。
 かってこの地区には子供達の憧れのお店が10軒もあったが今では4軒に減った。
 「アリコダチ」と呼ばれた雑貨屋さんも酒、タバコを商っていたが、この春、数台の自販機は動いていたが商品は見えなかったから店仕舞いをしたらしい。

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