岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

「馬はかどこ ②」

2007-10-29 17:57:09 | いなか暮らし

Cimg2974  かって馬産地だった当地域には馬魂碑や「馬はかどこ」(馬のお墓)が点在する。立木が伐採された山裾から「馬はかどこ」が姿を現した。写真

 この場所はかって人間の火葬もした。
 土葬の歴史は長いだろうがお墓が狭くて土葬出来ない家では火葬にしたようだ。

 集落の”意気のいい人たち”数人にお酒、料理、お礼を払って火葬をお願いする。
夕方に火をいれ、夜を徹して火葬を続けるが時として良く燃えないときや、あるいは頂戴したお酒に酔って、翌朝の「お骨拾い」に間に合わないこともある。
 そんな時、「お骨」以外の部分は近くのため池に投げ込んだ。

 釣り好きの人たちもそんな話を聞いているから、そのため池では釣りをしない。
 大きな区画の田んぼを造ったときに取り払われたそのため池には大きく育った鯉がいたそうだ。

 昭和20年代を最後に野辺の火葬や土葬は姿を消した。

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「酒屋かせぎ」

2007-10-25 20:27:47 | 田舎暮らし

Cimg2947 ※ 晩秋、北上川沿いには霧が発生しやすい

 岩手・花巻地方は日本酒つくりの杜氏集団の里である。

 中、高校を終えて家業の農業に就いた長男(多くは)は秋の取入れが済むと「酒屋かせぎ」に出発する。
 出稼ぎではあるが、言われるような暗さはない。
 むしろ、親元を離れるのが嬉しい。 10人から15人ぐらいで一つのチーム、蔵(酒屋)を担当する。
 三食、晩酌付き 給料もそこそこだから むしろ楽しい仕事だった。

 蔵(酒屋)にはしっかりした階級があり 杜氏さん、頭さん、麹屋さん、釜屋さん・・・・等々、一番下は「働き」と称した雑用係は時には杜氏さんの背中も流す。

 年毎に出稼ぎ先を替えて醸造学を修行し杜氏を目指す人。
 せっせとお金を貯めて帰郷するたび牛や豚を買う人。
 妻にせっせと手紙書く新婚の人はつらい。
 現地に彼女のいる人。ついには出稼ぎ先の彼女を嫁さんにした人(これが結構ある)
 貰った給料を夜遊びに使ってしまう人(これも結構あった)

 春、3月 造った酒を土産に帰郷が始まる。
 どの顔も、一冬、蔵の中で働いたために色白の顔になっている。
 集落の寄合いともなると自分の造った酒を持寄って遊びも含めて酒屋談義が弾む。

 昭和40年代、農機具の普及で田んぼの労力は大幅に減り「酒屋かせぎ」を辞めて近くの街に勤める兼業農家の道を選ぶ人たちが多くなった。
 出稼ぎで「半年離れていればいつも新婚気分」と言ってた人たちも夫婦離れて暮らすのは寂しい。

 南部杜氏 減ってはいるが、今でも
 全国の銘酒を手がけている杜氏さんは多い。

 新花巻駅から出発する杜氏さんを見かけた。
 

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「侵略者」

2007-10-23 18:01:19 | 田舎暮らし

Cimg2962  今から40年ほど前の大阪万博の年、京都郊外宇治市の近くにしばらく滞在したことがある。
 仕事の合間に京都の神社仏閣を見てやろうと、せっせと見てまわったので
 「岩手の頑固親父」は盛岡より京都の方がくわしい。

 行き帰りに通る久御山町の巨椋池の荒地に黄色い花が無数に咲いている。見た事のない背丈の高い毒々しいほどの黄色で晩秋というより初冬まで咲いていたが岩手では見かけないから暖地特有の花なんだろうと思っていた。

 秋、稲の取入れが終わって旅行に出かけると全国どこでも黄色い花をみかけるようになった。
 15~20年ほど前、黄色い花は岩手にも出現したと思ったら瞬く間に鉄道、河川敷、手入れの行き届かない転作田に黄色い花を咲かせるようになった。

 戦後輸入物資とともに入ってきて60年ほどで日本をほぼ「侵略」した事になる。
 普通の花が終わって寂しくなった野辺に毒々しくも真黄色の花はにくくもない。

 そのうち 「セイタカアワダチソウ」や・・・・・・晩秋の季語になるかもしれない。

   セイタカアワダチソウ(背高泡立草)キク科

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「姥捨伝説」

2007-10-21 21:03:31 | 田舎暮らし

 深沢七郎著、「楢山節考」は老いた老婆は70才になったら楢山まいり。
 息子に背負われて山を越え谷を過ぎて楢の木ばかりの山に捨てられるという、貧しくも悲しい物語である。

 昔、似たような出来事はどこでも行われたんではないだろうか。
 私の集落でもあったかも知れない。
 「姥(うば)ふところ」という地名がある。
 
その場所は特定できないが、それらしき場所は人里から離れて、今 道路拡張工事でそれと思われる場所がある。
 急峻な崖に大木が繁り、昼なお暗く、年寄りが登れるような崖ではないし、下れば大きなため池が道を塞ぐ。
そんな場所におにぎり二つで捨てられたら”ナミアブダブツ”を念ずるほか無い。

 集落にある曹洞宗のお寺さんは元和5年(1618年)の開創、その山門には餓死供養塔がある。天明の大飢饉の死者の菩提を弔ったものであるといわれる。
 その頃、1783年浅間山の大噴火、盛岡藩大凶作の1784~86年、以後寛政年間にかけて盛岡藩は凶作、飢饉が相次ぐ。
     ※ 写真は同寺の供養塔  写真は準備中
                              

 養塔は集落の餓死者を弔ったのだろう。
 餓死する人さえあるから予防策として「口減らし」のため、運悪く長生きしたお年寄りを背負って泣く、泣く「姥ふところ」へ送ったに違いない

 世界一の長生きを記録する今の日本で、70才になったお年寄り(失礼)を、「姥ふところ」へどうぞ・・・などと失言しようものなら、おしゃれして颯爽と歩く70代に石を投げつけられるに違いない。
 いい時代に生まれたもんだと感謝する。

 もっとも「岩手の頑固親父」も日一日と「姥所」年代に近づきつつある。

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「農機具事故」

2007-10-20 11:09:09 | 田舎暮らし

 農機具による事故を聞くたびに自分には無縁・・・・・
 と、思っていた。
稲の穫り入れの終わった頃から転作地を受託する生産組合の大豆の収穫作業が始まる
 この秋、好天に恵まれて作業が順調に進み「頑固親父」も数日出役。
 雨が近づいた日の午後、それまでの下回り作業からコンバインのオペレーターを任されて一時間余、畦越えに失敗「巨体」と共に横転。
Cimg2951 ※写真 運転席のキャビン仕様に救われ、事なきを得たが
  修理入院したコンバインが戻るまでの作業は遅れる。
  近づく雪を前にオペレーター仲間には申し訳ないことをした。
 後の反省会で基本操作の誤りが100%原因

 凡そ、どこの生産組合なり営農集団でもオペレーターの平均年齢は年々高まっているのが実情と思われる。
 事故にはくれぐれも、ご注意の程

 それにしてもこの秋、落雷に洪水、それにコンバイン事故
 いやな事件が続いたが、実は

 涙の出るほど嬉しいことがありそう !!

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