岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

かや葺き(ぶき)屋根

2022-04-28 16:56:35 | いなか暮し

 花瓶敷の四角いお盆(?) 昔々、かや葺屋根の葺き替えとか、刺し萱の手伝いに集まる沢山の人達の賄いのお膳として利用されたらしい、50枚ほど土蔵から見つかった。
 手伝いに集まった人たちは埃まみれの顔で、土間の長い板に並べられたお膳で、どぶろくをいただく笑顔がうかぶ。
 福島の大内宿や白川郷などの屋根の葺き替えがニュースで見かけることがある。
 かって農村ではどこでも見られた風景だろう。
  昔の農村部では茅葺屋根が普通だった
         新花巻駅前の茅葺古民家として名高い「熊谷家」昭和の終わりころだろうか・・・
 晩秋、取入れを済ませたころ、各々が持ち場のかや刈(かや又はすすき)をして、冷たい風でよく乾かして、天井裏などに積み重ねて保管する。
 翌春、地区のどこかで行われる茅葺屋根の葺き替えの手伝いに、天井裏のよく乾いた萱を持参する。沢山の人たちが持ち寄る「かや無尽」である。
 いつの日か我が家の屋根の葺き替えのためにと「かや」を持ち寄り、多くの人手が必要な葺き替えの手伝いをする。
 賄いの手伝いやら、屋根ふき職人、近所の子供たち、おそらくは5、60人もの人が、数日間集まる。
 一度、葺いた屋根は50年ほど持つと言うが、その間にも15年、20年ごとに刺し萱と言われる屋根の補修も入る。
 そのたびに集まる人たちの賄いのお膳の出番だったんだろう。

 我が家では昭和13年に母屋の葺き替えが行われたという記録がある。
 大工だった先祖が器用な腕を生かして、沢山の人が集まる屋根の葺き替えに合わせて50枚ものお膳を作ったのだろう。
 

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集落の歳祝い

2022-04-14 16:28:44 | いなか暮し

 かって集落のメイン道路だった我が家の前の道、次々に新しい道路ができて、人通りは減り、老妻自慢の花壇を愛でてくれる人は少なくなった、ページを借りて折々紹介しようと思う。
 4月、咲き誇るヒヤシンス、サンシュ・ユ ほかにも沢山咲いて孫たちは、香りがきついという。
 3月の年度末、集落で恒例の歳祝いの案内状が届く、33、42才の厄払いと併せて、60才の還暦、70古希・・等々、コロナ禍でここ2年は中止したが、その都度繰り越していては、だんだん対象者が多くなると今年は決行、お祝いの紅白の団子をを贈るとのこと、通常は総会終了後に招待を受けた人たちが上座に、折詰料理や記念品を前に座り、主催者の集落の次の世代グループにより進行される。
 普段、道で出会う人たちを改めて紹介、招待を受けた代表者の挨拶、そして乾杯、拍手・・・厄払いの現役世代と違って歳祝いはお年寄りが多い、久しぶりの集落の人達との会話、御馳走、お酒と楽しい一時に感激に、涙する人も・・・

 その感激の催しもコロナ禍で2年も中止され、対象者はその都度繰り越していたので、今年は沢山の該当者、我が家にも2才下の妻とともに2人分のお祝いの紅白の団子が届けられ、美味しくいただいた。

 集落の歳祝いは凡そ40年も前に「地域農業集団・・」という事業があり市から補助をもらい「ふるさと構想」の一環として地域農業の振興、生活環境の向上、地域づくりに取り組んだ中での歳祝いが始められたように記憶している。
 始めた当初は33、42才の厄払い対象者が多く、お年寄りは少なく、米寿に至っては皆無が続いた。
 その後、我が集落も元気なお年寄りが増えて、昭和61年65才以上は人口の14%ほどだったが
現在40%をしめるほどになった。元気なお年寄りが増えて、まずはめでたし、めでたし。

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おヨシばあさん

2022-04-06 17:19:27 | いなか暮らし

 もう見つからないだろうと思っていた懐かしい写真が見つかった。
 郷の人たちには懐かしい「山の神の分教場」とも呼ばれ、4教室に6学年が学び、古い建物は危険校舎とあだ名された、花巻市立矢沢第二小学校、せまい校庭は、まん丸のラインを一周すれば100㍍とは言われたが随分と短い100㍍だった。

 4教室しかない校舎に6学年を収容するために1、6年は単独、2から5年は複式学級で教わった。
 現代の子供たちには理解できないだろうが一人の先生が違う学年、例えば2年と3年生を同じ教室で同時に教える、2年が国語で、3年が算数と言う事だってある、子供たちより先生が大変だったことだろう。そんな環境でも勉強のできる子も結構いた、おなじ教室だから、できる子は上の学年の勉強まで覚える子もいた。
 そんな学校の4校時だったろうか、腕時計を見た先生が「ヨシさん、また、忘れてるな・・」
 校庭で大きな枕時計をそばに置いて、草取りに夢中の小使いさん(用務員さん)に二階の窓から大きな声をかける「ヨシさん時間だよ」
 時計を見たヨシさん、あわてて、そばに置いた鐘を大きく振り回して授業の終わりを告げる。
 勉強の終わった生徒100人ほどの山の学校は一気ににぎやかになる。

 山沿いの傾斜地の学校は、その後講堂が一段高いところに建てられ、さらには本校舎をさらに一段高いところに 見晴らしの良い場所に建てられ、更に一段高く増設校舎も建てられて、その都度、教室は長い階段で結ばれ 校庭も拡張された。

 矢沢尋常高等小学校矢沢分教場として親しまれ、昭和23年村立矢沢第二小学校、昭和29年花巻市立になってから設備の拡充が図られたが、昭和48年創立100年と同時に閉校となった。
 現在、建物はすべて無くなり、その跡地は小中学生向けのプールを備えた運動広場として地元の人たちに活用されている。

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