岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

早池峰山

2016-08-29 06:37:54 | 田舎暮らし

 病気と高齢、早池峰山にはもう登れないのだろうか・・・・あきらめて数年
 近くに住む、4才も上の先輩が数日前に早池峰山に登ってきたと聞いて我慢できなくなってしまった。
 少々雲が多かったがもう気にならない。食料を余分に持って、薬を何度も確認して、かって通い慣れた早池峰山に向かった。

 いつもの川原の坊コースは土砂崩れがあって通行止めのため小田越コースから登り始めた。
 登山道は整備されて大分歩きやすくなっている。
 しばらくして視界が拡がる頃、 ナンブトウウチソウ 
                   山はもう秋、花が迎えてくれた。

  雲が少し多いがその分涼しく気持ち良く登れた。
 そこそこのペースでやがて頂上、
 頂上の二の宮
   早池峰神社の奥宮は大同二年(807)の建立にはじまり、若宮はそれから400年ほど経て建てられた。
   山頂に二つのお宮が祀られているのは珍しいと聞いている。

 神様に久しぶりに無事登れたことに感謝のお詣り。
 登り2時間、下りも2時間 帰りの方がきつかった!
  前日の雨で岳川は増水して流れが美しい。

 体調、体力に自信が持てた。
 調子がついたところで秋、紅葉の時期にもう一度、再挑戦。

 

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夏が終わって・・・

2016-08-19 06:56:59 | いなか暮し

 新花巻駅前の「熊谷家」は 180年程前に建てられたと言われている。
 建具を取り払った茅葺きの大きな家は神楽を演じるには最高の舞台となる。

 熊谷家では毎年夏に胡四王神楽の鑑賞会が開かれる。
 最初に行われる神楽(しんがく)は小学生が舞い 
 続く「鶏舞」、「三番叟」、「八幡舞」も後継者たる小、中学生が熱演した。
 人気の「普将」、「曽我兄弟」はベテランの大人が舞い「権現舞」で締めくくり、お盆の一日神楽を堪能した。

 「熊谷家」では、9月22日 胡四王神楽と、幸田神楽の合同公演がある。

 猛暑の続く地方のみなさまには申し訳ないが岩手はお盆が過ぎて朝晩涼しくなった。
    取入れの秋も近い。  
 

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「8月7日は井戸の日」

2016-08-11 20:58:59 | 田舎暮らし

  アレチマツヨイグサ(荒地待宵草)
  オオハンゴンソウ(大反魂草)

  オオアワダチソウ(大泡立草) 盛夏、野花は暑さに負けない。
      かって、”ぼんばなっこ”と言われお墓に供えられた時代がある。

 8月11日は「山の日」として祝日に加えられた。祝日は年に計16日とか、休日が多いことはめでたい限り。平和の表れでもあるかもしれない。
 8月7日は当地方では、さしずめ「井戸の日」である。
 当地方では古来、8月7日の朝はお盆を迎えるためのお墓掃除の日、お墓の掃除を済ませた後は協同井戸に集まって井戸の掃除や手入れの日。

 昔、個々の家に井戸がない頃は8月7日は水を貰っている家に「井戸かき」の手伝いに行く。
 井戸が空になるまで水を汲み上げた後、蓑笠をつけた人が井戸に入り、積上げた石垣を洗う。
 石垣が崩れないか・・上を見上げると随分と心細いらしい。集まった人の中から小柄で若い人がおだてられて井戸に入ったらしい。
 無事に井戸掃除が終わって井戸の大家さんから暑い盛りの事でもあり、ところてんや御馳走を頂いたらしい。

 私達の「大森清水」は、今年も8月7日「井戸の日」、井戸の手入れや掃除、点検、水槽の掃除等々。
 降った雨が岩の多い大森山に浸透し、何年もかかって自然に湧く水は美味しい。
 受けた水質検査も「すべての項目、基準値以内」の太鼓判をいただいた。

  掃除終わって、感謝の拝礼をして、この後もこんこんと美味しい水が湧くように祈る。

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小さな「お宝」の蔵

2016-08-08 15:19:08 | いなか暮し

 旧家の古い土蔵から「お宝」が発見されて話題になることがある。
 地区内の旧家でも、多量の文書が貴重な資料とわかって博物館で特別展示されたり、見つかった資料を市や博物館に寄付した例が多々ある。

 我が家の土蔵は 122年前の、明治27年春に建てられたと言われている。
 防火のためと寒暖の差をなくした、厚い土壁で覆われた土蔵の中に入ると、真夏の暑さの中でもひんやりした涼しさは快適ではある。
 本家から分家になったのが明治初年、150年ほどしか歴史がないので話題となるような「お宝」はない。

 それでもかび臭くなった、ちいさな「お宝」は結構な量がある。
 祖父が昭和10年代に行政区長をやってたので当時の役場とのやり取りの文書が多い。
 戦時中ということもあって興味深い資料は結構な量がある。
 世相を知る小さな「お宝」に混じって、保存したというよりは、置き場所に困って単にしまいこまれたと思われるものも多い。
 戦時中の戦地からの手紙、普請の記録、地区の古い絵図等に混じって、我が家、代々の学校の通信簿はこの暑さの中で余計に汗が噴き出るような想いで見る。

 歴史の浅い土蔵も築120年余、屋根や壁に傷みが目立つ。
 屋根を瓦からトタン葺にして、壁をきれいに塗ると見違えるように美しくなる。
 お代は一式550万円也、小さな「お宝」の出費としては無理。

 それでは、いっそ解体してしまおう。 しめて280万円なり  
      ・・・・・さて、どうする ?、?、・・・・・

 

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名誉の戦死

2016-08-01 15:18:55 | 田舎暮らし

 私の叔父は、1921年大正10年生まれだから今年95才、あの戦争がなかったら、まだ健在だったかもしれない。
 お墓には「昭和18年1月5日ニューギニア方面で名誉の戦死」伊号〇潜水艦一等機関兵曹 と記されている。
 戦死場所は戦後20年ほどして米側資料で、「ラバウル南東方面において、12月20日米潜水艦シードラゴンの雷撃により沈没、沈没地点南緯5度2分東経152度33分」と正確な位置が分かった

 昭和13年17才で海軍に志願 高校2,3年生位の年令でなぜ?
 当時の世相か、それにしても私の祖父母たる両親は、なぜ可愛い4人兄弟の末っ子を海軍に志願させたのだろう。
 土蔵で見つけた古い紙切れからその謎が解けた。

     矢兵収第2466号 昭和12年12月8日     〇〇村長
  各区長殿 海軍志願兵ノ勧誘ニ関スル件
  ・・・・・採用人員ハ之リ公表セラレサルモ本県ニ対スル割当人員ハ本年ノ1270名ニ対シ明年ハ1500名ノ多数ニシテ配賦人員ヲ得ルニハ容易ナラザル実情ニ有元候・・・・・
  優秀ナル志願者ヲ多数得候様特ニ御配慮相成度・・・・・

 当時、行政区長を務めていた律儀な祖父は海軍志願兵の募集を勧めるためには率先して自分の子を志願させたのだろう。

 昭和18年1月5日、22才で戦死、空箱に近い骨箱が届いたと聞いている。
 3月、村葬が行われ、戦没者に送られる院戒名を、
  天皇、皇后両陛下からは祭粢料、海軍大臣からお供物料、海軍省から弔慰金を頂戴し、多くの人々に見送られたという。
 英雄、軍神、英霊の父母、郷土の誇り・・・・誉高かったと思うが、家に帰った祖父母は思いっきり泣いたに違いない。

 後年、戦死者に対する恩給がはじまって、長生きした祖母は恩給をもらうたびに馴染みの花巻の石川茶店へ立ち寄り
 「一番おいしいお茶をください」

 「精郎、お茶っこ、買ってきたぞ、美味いから飲め」 仏壇の写真に語りかけていた姿が思い出される。

 この夏休み、小6の孫が 広島の「非核平和学習会」に自分から希望して参加する。
 8月15日の終戦記念日には戦没者慰霊祭で作文を読むという。

 戦争、平和、非核に興味を持った今、昔話を伝えたいと思う。

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