岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

「ちんちん」が曲がる

2006-11-29 08:00:30 | 田舎暮らし

_014_1 ※写真 今、流れる小川は少なくなった。農業用水さえもパイプラインで地下に潜った。

 集落を蛇行する小川、かって生活と切り離せない大切なものだった。里山に降った雨、ため池からあふれた水は小川となって北上川に注ぐ。その流れは途中、米を研ぐ人、桶で風呂に運ぶ人、洗濯物をすすぐ水になり、小さな子供たちの水浴びの場となる。子供たちは貝を採り小魚を追う。中には流れに網をかけておいてどじょうや鮒、時には鰻さえも採る。集落に火事が発生すると係りの人はため池に走り水門を急ぎ開放して水を大量に流し消防に役立てた。

 台所の流しの水は溜めて野菜の肥料に、米の研ぎ汁や食べ残しは雑水として牛のえさにする。風呂水は小便と一緒に貯えてこれも野菜の肥料となる。排水は小川に流さない。みんなが大事な小川 子供には『小川に「しょんべん」するとちんちんが曲がる』と言って戒めた。そんなに古い話ではない 井戸から汲み上げる自家水道が普及し始めた昭和40年頃までの話である。

 今、水が流れる小川は無い。雨が降ると三面コンクリートの水路を勢いよく一気に流れ、誤って水路に転落した蛇も這い上がれないほど流れるから水害はほとんど無くなったが雨なしが続くとひたひた水が僅かに流れ水路の底にはぶよぶよした綿のようなゴミがたまっている。水洗化されていないので周囲の住宅からは何本ものパイプが水路に突き出しちょろちょろ絶え間なく流れている。日曜の朝ともなると一斉に洗濯が始まるから流れも良くなり集落の排水を集めて北上川に注ぐ。「ちんちんが曲がる」前に上水道が早く敷設されるのが待ち遠しい。

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「胡四王山(こしおう)伝説Ⅱ」

2006-11-28 18:01:57 | 田舎暮らし

Cimg1343_1 ※写真 胡四王山から岩手山方面を望む

遠野の菊池照雄氏の著書「山深き遠野の物語せよ」から・・・・

稗貫郡八重畑村は、北上の沖積平野に、ものうい田園風景をひろげている。夏の日差しを強烈にうけたたくさんの柳の木が、淡い陽影を道端に落とす。・・・・・

  昔、この村の呼石というところに、三人の姉妹神がきて、日暮れになったので泊まることにした。そして、明朝最も早く目覚めた者が、秀麗な早池峰山に飛んで行き、主神になろうと約束しあって眠りについた。

 一番末の妹はずる賢くて機転がきいた。宵のうちから眠らずに、夜明けに鶏が鳴くと、いち早く早池峰山に飛んで行ってしまった。つぎに目をさましたのは二番目の姉だった。すでに妹はいないので、早池峰のつぎに高い花巻温泉湯本の麓山(はやま)権現に飛んでその神となった。もっともおそく目の覚めた上の姉は、二人の妹たちの姿が見えないので、大声を出してよんだが、声は石に反響してかえってくるばかりであった。呼石という地名はここから発したのであった。

 姉は早池峰山と麓山をあきらめ、近くの大森山と小森山を重ね合わせ、早池峰山より高くして住もうとしたが、重ねおわらないうちに夜が明けてきてしまった。しかたなく低くて不満であったが、胡四王山を目ざして飛んだところ、御鉢箱(金銭、米雑穀の施し物を入れる箱)が重いので、途中の大きな松の枝に休もうとおりていったが、あまりの重さに下の田に落としてしまった。

 今ではこの田を御鉢田といい、肥料をあたえずに稲を育て、胡四王社に初穂を納めている。こんなつまずきの連続だったが、姉は胡四王山の女神に納まった。この胡四王社だけは、他の神社が南面しているのに対し北面している。それは、この山から北方にある早池峰山を見るためと、呼石の地が恋しく恨めしいためであったと説明されている。(佐々木喜善「東北の山と水の口碑」・・・・

著者の紹介は「胡四王(こしおうざん)伝説」をご覧ください。

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「胡四王山(こしおうざん)伝説」

2006-11-28 16:58:33 | 田舎暮らし

 Mvc001f1 束の間の農閑期、頑固親父も本を読む。

 標高170㍍ほどの花巻の※写真 胡四王山 周囲が北上川沿いの平坦地が拡がるためその割には遠くからも望むことが出来る。中腹には宮沢記念館がありあの山かと思う方も多いと思う。目立つ山ゆえ伝説も多い。遠野の菊池照雄氏の著書「山深き遠野の物語せよ」から・・・

 盲人に慈愛の厚い胡四王様 

 宮沢賢治のイーハトヴの幻想世界がひろがる花巻盆地からながめると、秋の早池峰山は、白い孤独な長城となって東の空に浮かぶ。詩人が対話し、詩心をあふれさせたものの一つに、この早池峰山がある。

 ・・・・太古、この盆地に薬の神がおられ、秋晴れの一日、三人の娘たちと野外を歩きまわった。娘たちは年頃であったから、どこからも仰ぎ見られる高い山の神になりたいと思い、四方の山の品定めをひそかにしていた。そして、ここだけ奥山のはやい雪に包まれ、神秘な山になりきっている早池峰山を、それぞれが心に決めた。

だが、秋日和のぽかぽかした花園につくと、三人ともつい気持ちが良くなって眠ってしまった。この時、天から蓮華の花がひらりひらりとおちてきて、一番上の姉の胸にとまった。最初に目を覚ましたのは妹だった。妹はそっと姉の胸の上の花をとりあげ、早池峰にいち早くとび去った。つぎに目を覚ました二番目の姉は南昌山(矢巾町)に、最後に目を覚ました姉は一番低い胡四王山の女神になった。

このため、以後、姉神は、目を覚まさずにおくれをとった悔恨を、盲目の人たちに味方をすることではらそうとしたという。胡四王の本地が薬師観音であるのは、観音の慈悲が盲人に厚く注がれ、その苦悩の生活をあたたかく包むことを願ってのことだったと思える。

越の国から、この信仰は瞽女(ごぜ)に抱かれてこの山地にたどりついた。そしてこの地で、大雪が大地を埋めつくし、野原も小川もまるくふっくらした曲線をつくるように、盲人の人生の苦しさをまろやかにに包もうとしたのである。・・・・・・ 

著者の菊池照雄氏1929年遠野生まれ、北上山地の民族研究を専門とし数々の著書がある。同書は1989年 東京の「梟」社から第1刷が発行されている。

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「馬の靴」

2006-11-24 18:01:35 | 田舎暮らし

Cimg1458  近くに住む知人の作業小屋で珍しいものを見つけた。※写真 草鞋ではあるがそれにしては短い、むしろ丸い草鞋。これは馬に履かせた草鞋いや「馬の靴」だと言う。その昔、荷馬車を引く馬は蹄鉄を付け足を保護していたが蹄鉄ならぬ草鞋、いや「靴」を戦中、戦後の鉄が不足した頃に馬に履かせたのだろうか。

 この屋の主はもともと農業の傍ら『馬車ひき』を家業としていた。荷馬車による運送業である。黒の前掛けに印半纏、馬の引綱を首にかけて歩く姿は憧れでもあった。文字通りの人馬一体、暑い夏の夕方、仕事が一段落すると「馬冷やし場」と言われる溜池の浅瀬で馬に水をかけて洗ってやる。馬は気持ち良さそうに岸の草を食む。又、あるときは仕事先で飲んだ「どぶろく」に酔って荷馬車で寝込んだ主を馬が家まで運んできたこともあったとか。

 鉄が不足して蹄鉄が使えないとき、主は夜なべで「靴・・草鞋」を作ったのだろう。花巻までの二里で一足履きつぶしたと言うから往復して二足、一日に十里も歩けば五足の「靴・・草鞋」を持っての『馬車ひき』稼業だったことだろう。

Cimg1504 集落には色々の石碑が多いがその中でも馬のお墓が多い。もっとも大きな馬魂碑※写真 は6~7メートルもある巨大な碑である。この地は大昔から馬と人、助け合って生きてきた。「馬車ひき」は自動車に、農耕馬がトラクターに変り、それでも40年代初め頃までは競馬の育成をやっていた人たちもいたがが今は馬も牛も見当たらなくなった。

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『いじめ』

2006-11-18 21:17:41 | 田舎暮らし

Cimg1481 ※今年の紅葉は美しい。もうすぐ冬、春には「いじめ」は昔の話に・・・・

「いじめ」 もっともいやな事が今、世間を騒がせている。今に始まったことではないと思うが最近のいじめ 陰湿だ。

 東京・目白の椿山荘のかっての住人、明治の元勲、山縣有朋(やまがた ありとも1838-1922)は安倍首相と同じ長州・山口県出身。高杉晋作等と行動を共にしたあと軍人として華々しい経歴を誇りヨーロッパの軍事制度を取り入れ日本の近代的軍隊の創設に力を尽くした。安倍首相とは違って当時の身分は下の下。母親を幼少時になくし継母にひどくいじめられた。長州藩の藩校、明倫館の子使いをしていた頃、ずーっと上の身分の士族の青年グループと道で出合った。折からの雨で道がぬかるんでいる。その内の一人が「袴に泥をつけた」と難癖をつけた。山縣少年は身分の違いもあってひたすら謝ったが青年は許そうとはせず土下座して謝る山縣少年の肩に泥の付いた下駄で少年の顔を泥に押し付けた。青年グループの一人がこの暴行を止めさせた。井上 馨(1835-1915)の若い頃である。

 維新後身分が逆転した。いじめを受けた山縣有朋は華々しい軍歴と共に明治31年からは総理大臣も努めた。難癖つけた仲間の暴行をとめた井上 馨は伊藤博文内閣の蔵相を努めた後は財政通の元老として活躍した。難癖をつけた青年、有地品之允(ありちしなのじょう1843-1919)も戊辰戦争に従軍 維新後の明治時代に2代目の連合艦隊司令長官、帝国海軍協会理事長も努めた。

 山縣有朋は有地に会うたび「あの、いじめのせいで俺は発奮した。貴様は俺の恩人だ」と言ったという。司令長官といえども上の上のトップの上司に言われる度にあのいじめをした有地は針のむしろ、身がすくんだことだろう。

 いじめを受けたら良い意味の復讐をしよう。見返してやろう。そう遠い話ではない。数年先には勉強なり、仕事で見返してやろう。頑張れ、いじめられっ子。

 

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