岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

2006-01-22 12:16:09 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg0733  農協や農機具屋さんから貰うどこの家でも使ってる暦とは少し違った暦を使っている。離れて暮らす孫たちと毎日、顔をあわせたいと思って一念発起、写真入の暦を作るべくパソコンに取り組んだ。

 かいあって、ようやく作れるようになった。電話の前やトイレにも、ポケットのメモ帳にも写真入の暦を持っている。

 トイレが一番良い。毎日、しっかり顔を合わせることが出来る。

 遠くの孫たちから毎日のように北から南からメールが届く。それでも写真がたまるとCD,ビデオテープも届く。ニューヨークのおいっこからもメール、昨日の電話は隣と話してると何等変わらない。おまけに随分と安くなってるらしい。

 その昔、と言っても昭和40年頃 山形からお嫁さんを貰った人がいた。そんなに遠くから貰って大変だろうと噂話になった頃もあった。便利な世の中になったものである。

 孫たちに「ここはいやだよ」と言われそうなトイレの暦、「じいちゃん頑張れ、ばぁちゃん頑張れ」 と、今日もしっかり微笑んでいた。

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春の海

2006-01-21 12:06:02 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg0728  春の海はとても美しかった

 農業関連団体の研修旅行に参加した。道路に圧雪、端には黒く汚れた 雪が山のようになっている。三陸沿岸に向けて走る。

 峠を越えた頃から次第に雪が少なくなった。南三陸の陸前高田、普門寺で百日紅(サルスベリ)の大木を見た。夏、赤い花をつけたらすごい迫力と思う 夏、もう一度来て見よう。

 雪の無い唐桑半島は雪の中から出てきた眼には新鮮に映る。車窓からは日向ぼっこが出きるように見えたが外はやっぱり寒かった。

 夜、お酌、いや洋服を着ていたからコンパニオンを講師に(?)翌日に疲れが残るほどの研修をしっかりやった。

 翌日、春の日差しの唐桑半島を回った。赤い花が咲いている。平均60才を超えた、じいさんたちには椿か山茶花かわからず結局、結論はでなかった。

  海辺に出ると晴れた『春の海』が美しく水の青さが印象に残った。もうすぐ、春だなぁ・・・・思いながらの帰り道、道路に表示された温度計は最初マイナス2℃、進むごとに2℃ずつ下がって峠を越える頃にはもうマイナス7℃にもなっている。

 家に着いたらやっぱり、まだ真冬だった。その夜、なんと今冬最低のマイナス12.5℃

 大寒の入りにふさわしい気温だった。ふと浮かんだ歌、、、、

            ・・・・・春、まだ浅く、、、・・・・・

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『米 60俵』

2006-01-20 13:27:26 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg0139  田植が終わって、植えられた幼い苗が自力で根を張り出して日ごとに逞しくなる。美しさと感動を与えられる時期である。

 『米100俵』は その昔、飢餓に苦しむ現在の新潟県長岡市に救援米100俵が届けられた。その米を食料として分けることなく将来の人づくりに役立てたと言うエピソードは小泉さんが総理になられたときの演説にもあったと記憶している。 

、、、、が『米100俵』にあらず『米60俵』である。

 小学校5,6年の頃、遊びに行った友達の家で米俵が60俵 いや50俵だったかも知れない それはドーンと居座り明るく輝いていたように子供心に思った。「米は財力」の当時、幼心に誓った??・・・ような気がした。

 「よし、俺は米をいっぱい作ってやる」

 目標の100俵は超えて200俵も超えた。それでは一日一俵、年間365俵を、 簡単に越えた。そして今、1000俵にも届かんところに居る。

 心に誓って50年、20倍もの生産、出荷をしているがあの、子供の頃 目の当たりにした輝きは無い。何しろ大量の米が余ってるそうだ。

 ICチップは産業の米とか言われた時代がある。この先、もしお米が足りない時代が到来したらいつかICチップを「電気釜」で炊いて食べるんだろうか。まずいと思うが・・・・・

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『16日』

2006-01-18 11:50:33 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg0725  我が家の仏壇、年代ものである。私の曾おじいさんは職人でもないのにかなりの腕を持ち自分で作った仏壇である。ほかに近くの神社に獅子頭も奉納している。もちろん漆も自分で塗ったというから半端じゃない。

 1月16日、8月16日 薮入りの日、村ではこの日地獄の釜の蓋も開くと言う。 閻魔様のおられる地獄も休日と言うことか。この両日と春、秋の彼岸は農家は「遊び日」と称して農作業は一切しないと言う決まりがあった。女たちは朝、早くから饅頭や切山椒をつくる。彼岸饅頭と言えば食べきれない大きさで図体の大きな人を指して彼岸饅頭のようだといった。

 その饅頭を持参して親戚筋の仏様を拝みに回る。子供が着いていけば遅いお年玉にありつけることもある。新しい仏様のあるところでは朝から来客が絶えない。人の往来で噂話や年寄りがどうした、子供は勉強が出来ない、漬物が美味い、まずい、・・・・どぶろくを飲んですっぱいとかまずいとか

 今では饅頭を持参する姿は珍しい。(家の家内だけはまだやってる)のし袋に1000円包んで仏様をさっと拝んで、さっさと車で帰る。パソコンもテレビもなくおまけに貧しかったのに誰も貧しいとも思わずおおらかな時代だったと感じる。                       

             ・・・が、やはり今のほうが過ごしやすい。・・・・・

        

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古峯ヶ原(こぶがはら)詣り

2006-01-17 15:04:37 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg0724  村には古峯ヶ原、出羽三山などの石碑が沢山

 古峯ヶ原まいりの習慣がある。栃木県鹿沼市の古峰神社のことである。百戸以上もの講中が班を編成して交代でおまいり(代参)する。御札を講中の各戸に配布してこの先一年の防火と安全をお守りしていただく。   御札の性格上本来は囲炉裏近くに貼ったものだが囲炉裏のなくなった今、どこに貼っているんだろうか。電子レンジとか温水器??・・・

 交通不便の頃、一日がかりで古峰神社に到着、宿坊に籠って翌日早朝、寒さをこらえて一番祈祷を良しとした。めでたく代参を済ませて鬼怒川温泉あたりでハメをはずす。

 高速道や新幹線の発達した現在、古峰神社という場所コース的には不便になった。朝出かけると昼には着いてしまう、といって午後出かけるには惜しい。

 最近は早めに代参を済ませて善光寺、伊豆、房総、はては伊勢まで行ったグループもある。今春は当班の番、30余名の平均年齢も60才を超えたので遠くには行かないことにした。お参り、鬼怒川、常磐ハワイ もっともポピュラーなコースにした。

 その後、新たに講の参加者を募ることになるが最近は減少が著しい。若い人たちは団体旅行はあまりお好みではないようである。大昔から続いたこの伝統もこの先何年続けられることか。また、ひとつ田舎の良さが無くなりそうである。

        ・・・・・団体旅行・・・・・

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