岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

三角関係

2021-02-23 10:22:03 | いなか暮し

 月一、出かける盛岡、車窓からの風景を楽しみに電車利用で出かける。
 盛岡駅から数分、 開運橋から望む岩手山、今日は良い顔を見せてくれた。
 昔々その昔、北上川を挟んで東西に相対している岩手山は姫神山と夫婦だった。
 しかし岩手山は早池峰山に恋をし、姫神山とは縁を切ってしまう。
 姫神山はこれを恨み、麻を紡いだ丸緒(へそ、、若い人には?)を岩手山の裾野に投げた、これが丸緒森になったという。
怒った岩手山は子分の送仙山に、姫神山を遠くへ追い出せと言いつけるが姫神山は目の前に居着いてしまう。激怒した岩手山は火を噴いて暴れ回り、送仙山の首をはねてしまう。
 だから送仙山は台形をしている。とんだとばっちりを食ったわけである。そして、はねられた送仙山の首は岩手山のふもとまで飛んで行って今の鞍掛山になった。
   鞍掛山から岩手山は目の前に雄大な姿を見せる。
こうしたことから、姫神山に登る人はその年は岩手山には登ってはならず、岩手山に登る人は姫神山には登ってはならないと言われる もしこの禁を破ると、そのものに災厄があるとされ、今でもこれを守っている岩手の山好きは多い。
 また、夏に三つの山が同時に晴れることは決してないとも言われる。

 岩手共和国のオキテ100ヶ条 岩手ってこんなにおもしぇんだじぇ! 「メイツ出版」から
 岩手の人気アナウンサー菊池幸巳アナウンサーが監修している。
 そのほかにも、愉快な岩手話満載、ぜひご一読のほど・・・・

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我が里の「新日本紀行」

2021-02-19 15:52:14 | いなか暮し

 日曜朝、少し早起きして 6:45からBSPの新日本紀行(再)を見る、富田勲の音楽が懐かしい、番組後半、放送から約半世紀後の現在の様子も見せてくれる。

 我が里が、もし「新日本紀行」で放送されていたら・・・・・
 およそ半世紀、50年ほど前・・・雪解けとともに若い人たちを中心に出稼ぎ(多くは造り酒屋)から半年ぶりに大きな土産を持って帰ってくる。
 数年前に若い人たちが原動力になって行った農業構造改善事業で田んぼは大きく区画され、大型の設備、農機が配置された。
 外国製の大型トラクターを運転するのは出稼ぎから帰ったばかりの若い衆、当時、田植え機の普及は始まったばかりで、そのころまでは昔通りの「結、ゆい」(共同作業)、たくさんの人達が一緒になってにぎやかな田植えが行われた。
 丑年の夏、出羽三山参りが行われる。地区内のほぼ20代の人たち2、30人が集まり、およそ3泊4日、出羽三山参りまでは親から小遣いをもらって良いと言われ、親からの餞別で湯の浜、上の山温泉辺りで男になって帰った人も多いと聞く。
 秋の声を聞いて鎮守の秋祭りは、子供が多く集落ごとの神輿を競い、夜には青年会主催の演芸会、酔いもあって大きな歓声が上がり、沢山の、志(お花)は青年会の良い収入にもなった。
 そして収穫の秋、農構事業で導入した外国製の大型コンバインは弱い地盤に時折立ち往生、ほとんどがそのころ普及したバインダーで稲刈りし、昔通りの「はせがけ」で乾燥、調整は各自作業小屋で行われて、事業で設置されたカントリーエレベーターは閑古鳥。
 取り入れ済ませた若い衆は再び出稼ぎに出かける。
 出稼ぎ先は刺激の多い町場が多く内心楽しみもあるが、出かける方はいいとして留守を守る新婚のお嫁さんは涙で送る。

 それから50年、当時夢にも思わなかった高速道や新幹線が地区内を通り、駅までもでき、北上川には新たに橋が架かり空港やインターまで10分と交通の要衝にと変わった。
  田んぼの景色は変わらないが、お米の造り手は法人なり生産組合が中心となり、トラクターを運転するオペレーターの顔ぶれは50年前と変わらず、70代中心、収穫されたお米の乾燥調製は今ではほとんどカントリーで処理される。
 農業の跡を継ぐべき若い人の多くがサラリーマンとなり、祭りの神輿を担ぐ子供が極端に減った。
                   少し寂しい・・我が里の新日本紀行

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「御詠歌」

2021-02-08 11:44:23 | いなか暮し

  新花巻駅前駐車場 今の時期、卒業記念旅行などで車がいっぱいのはずが、今年はガラガラ、いつもの満車に戻る日はいつ・・・・

 庚申の日、今年は1/12の初庚申から11/8の終い(しまい)庚申まで60日ごとに繰り返し続く。
 花巻地方では庚申を「おかのえさん」と呼び、各地の集落で、年に何回かの庚申講が農村の大きな楽しみでもある。
 庚申様のお使いと言われる三猿が描かれた掛図を前に一同で御詠歌をあげる。
    あさひさし こうしんかがやく
      かのえてら いりあいひびく まつかぜのおと
 
    つきつきに いのれよまもる
      かのえさる ときのさいなん のぞきたもうぞ

    げにいのる こころぞかのえ
      よいのそら うんはてんより さずけたもうぞ

 花巻市幸田の八雲神社の本宮は三郎堤を見渡す小高い丘である。
 何基かの石碑の一つに御詠歌が刻まれている。

    八雲立つ 出雲八重垣
      つまごみに八重垣つくる その八重垣を

 歌の世界には疎いが、古事記の有名な歌だと思う、昭和の初めに建てたこの碑に流用したものだろう。

 大昔から伝わる「おかのえさん」も最近では開いたという話を聞かないから「御詠歌」の機会もない。
 人が亡くなった時に集落の人たちが大勢集まって、一緒に祈る「お念仏」もコロナ禍ではやれない。
 私の集落では若い人たちが、無くすには惜しいと「御祝い」と「お念仏」をCDに記録して各戸に配布した。

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歩数

2021-02-06 14:36:20 | いなか暮し

 雪に閉ざされた昨今、農閑期でもあり運動不足気味、体力の増強は無理として、せめて体力の維持を目標に散歩の時間をとっているが目標の一日一万歩はなかなか難しい。
 となり村の従弟を訪ねた。「車のほうが・・・・」という老妻の声を背に雪道を土産を背負って往復して歩数計を見たら、まだ15000歩、距離にして10キロほどか。

 江戸時代後期、庶民のお伊勢参りは近畿周遊と合わせて2、3ヶ月にも及び徒歩の旅は一日平均歩行距離30キロ、時には60キロを超える日もあったらしい。
 旅の一日は男10里(40キロ)女9里(36キロ)と言われた。
 一日40キロとは/一歩70㌢として=一日に57000歩ということか。
 数百万年の人類の歴史の99%以上が狩猟採集時代、効率よく動くために体を進化させた。
 体を動かし続けることで脳や筋肉、骨、血管が適度に刺激され機能が維持活性化されるようにできている。
 現在 交通網が発達し、車にスマホと、便利な生活をしている。
 便利な生き方の変化に追いつけず体が機能不全を起こす。
 「生活習慣病」肥満、糖尿、高血圧、高脂質 等々
 伸び続ける平均寿命だが肝心の健康寿命こそ伸ばすためにも運動を・・とはよくわかっているが・・・
 地球上の人間80億のうち14億が運動不足だと言われている。
 現在の日本、都会の30代は一日7000歩、地方へ行くほど、その歩数は少なくなり5万未満の地方都市では6000歩ほど。
 どこへ行くも車を利用する田舎の人ほど歩数が少ない、思い当たることではある。

散歩は歩かないよりましだが平坦地は疲労感が少ない分、達成感も少ない。
 そんな時におすすめ 麓の駐車場から宮沢記念館に通じる階段は367段、一気に登るか、2、3回往復するか。
 ハァーハァーいいながらも、木の階段は心地良く、今夜の晩酌が進む事、請け合い。

 

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「御祝い」

2021-02-06 10:03:11 | いなか暮し

 花好きの彼女(老妻)は年中、花は欠かさない。
 種や球根から自分で育てるのが楽しみで、鉢も手造り、ペットボトルや空き箱で器用につくる。

 窓辺や玄関等々、時には邪魔っけにもなるが・・・・

 花巻地方で祝い事や集会に必ず唄われる「御祝い」唄だが唄える人が少なくなり存続も怪しくなっている昨今、コロナ禍で集会が持てなくなり終息後には?
 祝宴で乱れた席に「御祝いをお願いします」の声で急ぎ自分の席に戻り正座する。
「音頭上げ」を指名された人が手拍子で歌い始めて一同が続く。
   御祝いは しげければ
           おつぼの 松もそよめく
   上り舟に 花が咲く
           下り舟に実がなる  
 たった、これだけの歌詞を独特の節回しで、とうとうと15分ほど歌われる、初めて聞く人にはほとんど意味が分からず、長く感じるが手拍子を合わせていると何とかなる。
 歌詞は同じでも、節回しは地域、集落によっても違うから「知ってる・・」と思っても、よその地域では、最初はあまり大きな声を上げないほうが無難。
 地域によってはまだまだ続く。
   雫石は 名所どこ 
                           野菊の花は二度咲く

   まるき銭は 数知れず  
                             黄金の倉は九つ

   喜びは 御代喜ぶ  
                             孫子の代まで喜ぶ

   庭の中には 米が降る  
                             奥の倉にはさんに積む

   おゆるおゆると お控えなされ 
                            大沢河原につくまで

   お立ちをは 忘れて   
                            お酌にまぎれて今立つ

 慶長5年(1600)和賀忠親の岩崎一揆を制した南部勢が祝宴の席でお国自慢を唄ったのが始まりと言われている。


    

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