岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

下駄

2020-05-20 14:22:46 | いなか暮し

 浴槽に何か浮いている。  
 浮かんだ容器の中には脱脂綿らしきものを敷いて、何か野菜の「芽だし」らしい。
 適度な温度、湿気で丈夫で良い芽が出る、と我が家の植物博士(老妻)の知恵。

 銀山温泉を訪ねた折に、浴衣がけで、大正ロマン湯の町と言われる温泉街を散策したことがある。
 履いていた宿の下駄が、カランコロンの音や、足によくなじみ、なんとも気持ちよく、土産物屋に立ち寄り、今風のしゃれた下駄を買って帰った、多分、お気に入りの一足となり毎日のように履くんだろうと・・・・
 あいにくと、わが郷は田舎、どこへ行くにも軽トラックは欠かせない、車の運転と下駄は相性が悪い。
 下駄ばきでお盆のお墓参りに一度、履いたきりで、せっかくの下駄は棚の上で埃を被っている。
 
 昔々、高校に通った3年間、雪の冬を除いて、素足、下駄ばきで通学した。
 クラスの殆どが下駄ばき通学だったと思う、釜石線の終着、花巻駅から学校までの近道、花巻電鉄の線路沿いを、みんな下駄ばきで、ふざけながら通学している懐かしい写真がある。
 何人かは”ボクリ”を履いている。足を乗せる板部分に、別に作った”歯”を取り付けた”ボクリ”は慣れないと、うまく歩けないし、足を捻挫することにもなりかねないが、当時、"ボクリ”はかっこ良かったのかもしれない。
 木製の下駄は当然すり減り、次第に単なる板状になる。
 「また、減ったのか?」小言、言われながら、貰ったお金で、多分180円くらいで買えたと思う。
 新しい下駄のピシッと締まった鼻緒の感触が懐かしい。
 すり減った下駄の記憶はあるが、通学途中で鼻緒が切れたという、思い出はないから麻糸の鼻緒は随分と丈夫なものだったんだろう。
 そんな下駄通学も60年代までだったというから、前回のオリンピック頃には、もう下駄通学はなくなっていたんだろう。
 今はいい、カラフルで、軽く、目的に合った色んな靴が、いっぱい玄関に溢れている。 

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50年目の弔辞

2020-05-19 16:44:46 | いなか暮し

 釜石線を走る人気の「SL銀河」に、彩をと咲かせた菜の花だったが
  花は散っても「SL銀河」は来ない、3月22日にオリンピック聖火を乗せて、走り去ったまま戻ってこない。
 一日も早く”普通の”日常に戻れますように・・・・・

 おばあさんが亡くなって今年50年、おじいさんは70年。
 私は訳あって、二人に育ててもらった、頃は終戦前後。
 23才の若さで叔父が戦死、同じ年に玉のような男の子(?)私が生まれた。
 翌年、1才の誕生日前に30才の父が死んだ。
 次の年、あろうことか、母は私を残して里に帰ってしまい、そして終戦。
 更に農地解放、貸していた田んぼは、開放という名のもと小作者の所有となり小作料収入の道も閉ざされた。
 終戦前後、日本中が貧しく、物資の極端に無い時代、幼子を抱えての苦労は大変なことだったが、そんな中にも人助けもしていた。
 大きな母屋を生かして、2世帯の疎開者も引き受けていた。
 後に養子として母が戻り、再婚、弟もできて、家族として一応の落ち着きに安心したのだろう、おじいさんが60才で逝ってしまった、その時、私は小学1年。
 残されたおばあさんは、成長する孫の私に期待したことだろうが、勉強嫌いで、何かと反抗する孫には、ほとほと呆れた。
 九星占いをよくした、おばあさんは、成長する私に、相性判断をしてくれた。
 「三碧木星のお前には、二つ年下の、一白水星の娘が相性がとってもいいから・・・」と何回も何回も言われた。
 反抗する私も「一白水星」だけは素直に聞いて結婚、今、子や孫に恵まれて平穏に暮らしているから、おばあさんの相性判断は正解だったのだろう。

 おじいさん、おばあさんありがとうございました。
 50回忌を迎えた今、感謝したり、謝ったりして、二人の功績を、孫たちに語って聞かせたところで仕方もないので、「50年目の弔辞」としてまとめて、お仏壇に収めておきます。
    そう遠くない将来、私もそちらに行くことになるでしょう。
       積る話は、その時までお待ちください。 

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