岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

閉校

2021-03-29 17:51:01 | いなか暮し

 北帰行した白鳥と入れ違いにやってくる大きな鳥(鷺)の一団。
 ギャーギャー大きな声で鳴いて、大きな木の上に住み、蛙でも探すのか、田植えの終わった頃、田んぼを歩き回る。
 足が長いのに、ちゃんと足を上げないで歩き回るから、植え付けたばかりの苗を踏みつける。
 大きな鳴き声、容姿もいまいち、白鳥のように歓迎されない可哀そうな鳥でもある。

 平成の大合併で大迫町は花巻市と一緒になった。
 内川目小学校は、この3月で閉校された。生徒数も少なくなっていたんだろう。
 亀ケ森小学校とともに大迫小学校に統合されるという。

 通いなれた早池峰山への道沿いの内川目小学校、この先販売機がないので、いつもここで車を止めて、校門前の自販機で山登り用の飲み物を買った。
 内川目小学校の子供たちの声がいつも聞こえていた。
 その先、早池峰ダムができる何年も前、早池峰に向かうバスは7、8月の登山シーズン以外は落合止まり、その先は徒歩で早池峰へと向かう。
 道筋に、大又小学校があり、ここでも元気な子供たちの声を、まじかに聞きながら、麓の岳集落に向かったが、大又小学校はすでに40年ほど前に折壁、中乙小学校とともに内川目小学校に統合されたものだという。
 どこも子供が多くにぎやかな時代だった。
 いつかテレビで見た。フイリッピンのセブ島の子供たち、大勢の子供たちがカメラマンを追いかけ、昔の日本のメンコのような遊びをやってる子や、走り回る大勢の子供、明るい日差しの下で、みんな笑っている。この子供たちが将来の世界の大きな力になるんだろう。 
 かって日本でも元気な子供たちがあふれた時代がある。
 その子供たちが大きくなって今の日本の繁栄をもたらしたんだろう。
 今、子供たちが少ない、抱っこしている赤ちゃんなんて、ここしばらく見たことがない。子供が少なくなって集落の子供会も運営が難しくなっている。
 いつか賑やかな子供の声に安心して過ごせる国になればと・・・・。

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はやり病

2021-03-28 16:14:53 | いなか暮し

数百の白鳥で賑やかだった三郎堤、今年の北帰行は幾分早めで静かになった池に、一羽の白鳥が残っている。
 首が黒っぽいから幼鳥なんだろう。
 怪我でもしているのか、あるいは遊び惚けて、みんなと一緒に飛び立たなかったのか、
 早く追いかけないと、みんなが戻ってくる秋までは寂しく、長いぞ・・・・

 たまたま手に取った岩手の年表、今から120~140年ほど前の明治期
 明治15年(139年前) 釜石でコレラ死 302人
   19年(135年前) 県内コレラ死  312人
   28年(126年前) 県内コレラ死 105人 赤痢126人 チフス110人
   32年(122年前) 県内赤痢死 2070人
 僅か20年ほどの間に現代からは想像もつかない疫病が流行している。
 加えて、この前後、明治27年日清、36年日露戦争、そして明治29年の三陸大津波は21959人の死者を出し、加えて飢饉、大規模洪水も相次いだ。
 そのせいもあったんだろう、明治24~31年頃の平均寿命は男42.8才、女44.3才、はやり病、戦争、大津波、飢饉、人々の恐怖は現代のコロナの比ではなかったはず、医学もまだ進まない時代、多くの人たちは、ひたすら、神様にすがったことだろう。
 明治期でこの状態だから、さかのぼる江戸期は尚更。

 今、新型コロナの感染が収まりませんが、現代の科学は進んでいます。
 ワクチンの接種も始まって、トンネルの出口は見えてきました。
 トンネルの先には大運動会が(オリンピック)待っています。
いま一度、お上や学者の先生の言うことを素直に聞いて、カラオケ、居酒屋はしばしの我慢、咲き誇る桜は横目で眺めて、密をさけ、マスクの着用を守り、一日も早くコロナとお別れ、終息したら今まで我慢した分、思いっきり羽を伸ばしましょう。

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パソコン

2021-03-20 17:27:17 | いなか暮し

 旧暦の2月8日の夕方、どこの家でも門口に、障子紙で作った小旗に「疫病退散、春祭りの事」と、睨みつける怖い顔を書き、団子を添えて立てる。
 家々を回る疫病神退散のおまじないと言われている。
 今年、この家では可愛らしい絵で疫病神を追い払おうと・・・・・広く行われていたこの行事も今年、この家以外では見当たらなかった。
 旧暦の2/8は今年は新暦3/20、厄病に襲われているいまこそと思われる、我が里の昔の風習である。
 

 小6生がお母さんとスマホ片手にパソコンに向かってる。
 お母さんのスマホが調子が悪いとかでメーカーのサポートをパソコンで受けているところだという。操作はもっぱら小六生、お母さんはそばで見ているだけ。

 我がパソコン元年は平成10年ころ、だからもう20年余りの昔、取引先からパソコンに興味を持つようにと言われて1、2年「今後の取引はすべてネットを通じて行います」本を買って見たり、講習会に通ったりと、ようやく覚えたロータス1・2・3 一太郎がオフイスに代わり、当初のアイウエオ入力がアルファベット入力に変わったりと涙ぐましい努力を重ねたが、今ではアマゾンの買い物とユーチュブ専用状態、得意だったエクセルも身近に計算するような数字がないから開く機会がないから操作も急速に忘れている。
 
 厄介なパソコンだが子供たちは、キー操作はゲームで慣れているせいか抵抗なく触れ、柔らかな頭脳は一度で覚え、しっかり記憶する。

 お母さんとパソコンに向かってた小6生は1時間ほどしてスマホの調子が直ったといってお母さんを感激させていた。

 デジタル教育うんぬんが言われているが、子供たちは必要になればいつでも簡単に吸収できるから、小さいうちは紙の本で勉強、読書させたいものである 

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西部劇の冬

2021-03-10 18:14:02 | いなか暮し

 東京では桜を指折り数えて待ってるころ、岩手の春はこれから始まる。
 日当たりのよい土手ではフキノトウが日増しに大きくなって、今夜は「バッキャ味噌」が酒の肴となりそう。
 その日、仙台駅がデートの約束の場所 二人で駅前に出て映画のポスターが目に留まった。
 話題の西部劇「ウィンチェスター銃73」・・・仙台ではもう上映されているんだなーと思いつつデートの話題は映画、ポスターが気になり西部劇に誘った。
 彼女にしてみたら、もう少しロマンチックな映画を見たかったはず、映画が始まったら彼女そっちのけで見入ってしまった、あの時、やさしく手でも握ってやれば、あるいは歴史も変わってたかも・・・・。

 子供のころから見始めて、ベテラン後期高齢者となった今も映画、特に西部劇は大好きである。
 秋の取入れが終わったころから冬の間はもっぱら、西部劇三昧、レンタル店の奥まった狭い棚にひっそりと、むかしの西部劇が並び,7泊100円の格安でDVDが借りられる。
 見た後に深刻に考えさせられる様な作品や、やたら殺す,傷つけるマカロニウエスタンもお断り、軽快なラッパの音ともに現れる騎兵隊、砂塵を巻き上げて疾走する幌馬車、奇声を挙げながら迫るインデァン、どこまでも青い空、荒野の街でガンマンの因縁の対決、勧善懲悪そしてハッピーエンドが良い。
 50、60年代に人種の取り上げ方に問題があったのか、かっての勇ましい西部劇は少ない。
 この冬もよく見た。もう5、60年以上も前の作品だろう。「荒野の7人」「幌馬車」「三人の名付け親」・・・昨今の映画に見劣りしない。
 最近BSプレミアムもびっくりするほどの名作が放送される。
 最近、「リオブラボー」が放送された。2㍍近い大男、ジョンウエインがライフルをおもちゃのように扱ってのアクション、「リオブラボー」なんてもう何回見たことだろう、それでも見るたびに感激している。

 3月の初めに咲き始めて、今は色とりどりのクロッカスが咲いている。
 日差しも明るくなり、やがて田んぼや畑の仕事が待っている。
 西部劇の冬も、今シーズンはおしまい、秋になったらまた、ジョンウエイン、カークダグラス、リチャードウイドマーク、ジェイムススチュアート・・・・(若い人たちは御存じないだろうな)を楽しみに仕事に精出すとしよう。


 

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数字いろいろ

2021-03-02 10:09:01 | いなか暮し

 2/13夜は大震災以来の強い揺れ、2/15から翌16日にかけて暴風雨で神社の大きな杉や、路傍の小さな神様も倒木に見舞われた。
  強い風のせいばかりではない、近年、里山の雑木の枯れ、倒木が目立つ、病害虫だろうか、それとも昨今言われる温暖化も関係してるんだろうか?
 元来、数字は苦手とするが新聞、テレビなど数字なしでは世の中分からない。

 昭和22年から僅か70年余りで平均寿命が男女とも30年余り伸びた、平成の30年ほどでも5才も伸びたというから驚き、そして
 平均気温、長期的には100年あたり 1.26℃上昇するといわれるが1980から1990までの10年で一気に0.7℃上昇、2010までに1.0℃も急上昇した。
 寒いより暖かい方が、という数字ではない。昔、北上川は3月ともなると上流から途切れることなく、大きな氷片が流れて渡し船に、擦れる音を覚えているが、今北上川に氷が流れることはない。温暖化とかいう現象だろうか。
 驚く数字はまだあった。農家の懐に入る生産者米価の推移、米1俵60キロ当、50年前の昭和48年10300円余、最も高かった59年には18000円台、その後は下がり続けて昨年は13000円ほど、59年の3割も安い値段で農家は採算をとっている。
 米の消費量も昭和37年、日本人は1人、年に118キロも食べていたが現在50キロ余、加えてコロナ禍によりさらに減っている、その間、何を食べているんだろう?
 たまたま調べた集落の人口集計がある。
 昭和37年、我が集落の人口168人、総平均年齢40.5才 それから35年ほどして新住民による戸数は増えたが、定年後に移住した世帯が多いので若返りや人口増にはほとんど貢献しない。
 現在人口162人、総平均年齢52.3才、65才以上の高齢者は35年前の14.3%から38.7%まで増えた。(最も個人情報とかで新しい住民の年齢は正確ではない)
 かって人口が減り、65才以上の高齢者が50%を超えると「限界集落」と言われる言葉があったが新幹線駅近くに位置する我が里も、やがては「限界集落」か。

 かって青雲の志を抱く、紅顔の美少年・・・それから50有余年
    やがて、80才を迎える自分の、この年齢が最も怖い数字ではある。 
 

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