秋以来の不順天候で葉物野菜は品薄状態が続く。
老妻が手掛けた野菜が産直の一角に並ぶ。
売り上げで何か買おうとは一向に考えない老妻ではある。
大掃除の季節、パソコンも大掃除とばかりに雑多に入ったファイルをまとめて「ごみ箱」へ入れてすっきり。
翌日、「あれ!いつものファイルは?」
捨てるはずはない、あちこち探しても見つからない、「ごみ箱」は・・・
念入りなことに、すでに”ごみ箱は空に”してしまった。
その昔、会社の机の下のくずかごは掃除のおばさんがきれいに片づけている。
「あのメモは?」 「何かに書き込んだつもりだった」「あれは・・・」「これは・・・」
騒ぎ始めたころ、掃除のおばちゃんが
「昨日のくずかごの中身はとってありますよ」
天使にも見えたあのおばちゃんには何回か助けられた。
パソコンの中には気の付く優しいおばちゃんはいない。
一瞬にして消失、元には戻らない・・・・大事なものはやっぱり紙にも残そう。
今年の大きな後悔と反省。
あれっ!三郎堤が凍っていない。
平成5年、三郎堤は冬の間全面凍結なしで暖かい冬を過ごしたと思ったら夏の寒さで大冷害、以来年越し頃に全面凍結していなければ翌年は不順天候と縁起を担いでいる。
年越しまで数日、大晦日には凍ってほしい。
古希を過ぎての誕生日に子や孫の前でスマホ挑戦を宣言。
「デジタル爺いが・・・」と陰口が聞こえたような・・・
薦められたお年寄り用機種を断り「ボケ防止に一番難しい機種をください。
そこそこ動いていたが肝心のパソコンとの接続がいまいち良くない。
デジタルに明るい知人を頼ってやって貰ったら簡単な操作で解決した。知ってる人からしたらまったく簡単な操作。
そういえばパソコン挑戦初期も同じ苦労をした思いがある、悩んだ末にキーボード軽く叩いて解決ということが度々あった。
今、またスマホに同じ思いをさせられている。
「スマホ」ってやつは・・・・まったく。
震災後、少々控えめの我が家のクリスマスツリー。
モミの木に見立てた5メートル余の糸ヒバのツリーに孫たちは大喜び。
クリスマス、日本では意外と古くからやってたらしい。
明治の昔、子供向けのお菓子屋さんがすでに商戦に使っていたらしい。
昭和の初めには「すでにクリスマスは日本の年中行事となりサンタクロースは日本の子供にすっかりなじんでいる」と新聞に紹介されていたと言う。
それでは我が田舎ではいつ頃から始まったことだろう。
東京タワーは今年50才とか、それよりさらに10年ほど前の昭和20年代、
当時、小学3年の「頑固親父」、古い木造校舎の階段の踊り場に飾られた初めて見るクリスマスツリーに感動していた。
戦後間もない頃の物資が極端に不足していた時代に、当時の細川校長、中村先生、喜江先生が貧しい子供たちを喜ばせようと裏山の手頃な杉の木を切ってモミの木に見立て、材料をやりくりして子供たちが帰った後、ゆうべ遅くまでかかって飾り付けたのだろう。
その日、複式学級の子供たちは薪ストーブの周りでクリスマスの話題に夢を膨らませていたと思う。
学校から帰って、その晩・・・・・
クリスマスプレゼントなんてのは無かった。
昭和48年の秋と言うから、もう40年ほどの昔、中東戦争が勃発し原油の供給が逼迫し価格高騰、翌49年は狂乱物価といわれ一見関係のないようなトイレットペーパーや洗剤の買占め騒ぎ、紙もなくなり雑誌が薄くなりテレビの深夜放送は中止。
その頃、「資源の枯渇」このままでは近い将来地球上から原油が無くなると言われたが、最近はほとんど聞かない。
オイルショックから40年も経って地球上に原油が増えているはずもないし有効な資源の原発も”脱”とか”卒”とか言われて雲行きが怪しい。
自給率の低い食糧、原油
食料は全く輸入できなくとも我が家は農家、2年や3年最低限の自給はできるが石油、これだけはどうにもならない。
車、農機具は勿論 築100余年の我が家の暖房に灯油は欠かせない。
灯油がなかったら我々年寄りは凍死するかもしれない。
資源は大事に使おう、凍死しないためにも。