岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

古いアルバム

2024-03-29 14:29:27 | いなか暮し

 早々と2月22日には咲き始めたクロッカスだったが、その後の不順な天候続きで3/28の暖かさで1ヶ月ぶりにようやく満開、変な天候の続く今年の春である。


 終活とか断捨離とか言うらしい、折を見ては古いものを捨てるように心がけている、本棚にもほとんど開くことのない本や、古いものがいっぱい、そんな中に大正末生まれの両親の古びたアルバムが「北陸、四国、関西巡り団体旅行記念」1957年というから昭和32年、実に67年も前の旅行、主催は盛岡鉄道管理局、交通公社、参加者名簿を見てびっくり、500名もの参加者は凡そ岩手県全域から集まり、両親は近所の人たち8名と一緒の参加、臨時列車を仕立てての大旅行だったらしい。
 名簿末尾には添乗員8名、客車受け持ち係10名の名前も載っている、出発当日、車中泊した翌日の日光の記念写真は一枚に70名ほど写っているから小さくて両親が見つからない、日光から長野へ移動したその夜は戸倉温泉に泊まり、さらに翌日は善光寺、その夜は再び車中泊、京都ではホテルに2泊、さらに四国で栗林公園や金毘羅さんにお詣り、船中泊まりをへて大阪から高野山、伊勢に参って車中泊りで帰郷、計10泊11日、車中4泊、舟2泊、宿4泊、豪勢というか、すごいというか当時のびっくり旅行に感服する。
 長い長い列車の旅だからアルバムには同乗した医療班の診察を受けている人や列車内のど自慢大会の様子も写っている。どちらかと言えばお年寄りの多い500名あまりの参加者は楽しい楽しい夢のような10日あまりだったに違いない。
 戦後の余韻の残る昭和32年と言えば、まだまだ貧しいころ、両親はよくぞ思いきって大型旅行に出かけたと感心する。 
 両親は一生一度の大旅行だったから、「あの時は・・・・」と農作業の合間など、亡くなるまで大切な思い出として語っていたように思う。
 おおいに楽しんだこととは思うが今から見たら「ご苦労さま」とねぎらいたいほど、当時の私、中学1年だから弟は小学生、その下の妹は4才、留守を守ったおばあちゃんは旅行してる人よりも大変だったと思う。
 旅行に出かけた人、留守を守ったお年寄り、昔の人たちは強かったなぁと思う。

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早池峰神社蘇民祭

2024-03-20 13:40:26 | いなか暮し

 千数百年もの長い歴史を持つ奥州市黒石寺の蘇民祭は、コロナ禍を乗り越えて再開を喜んだのもつかの間、今年で長い歴史を閉じるという発表にはびっくりした。
 今年に入ってから花巻市の胡四王神社、五大堂光勝寺の蘇民祭はコロナに加えてインフルエンザの流行もあり今年も休んだ。
 唯一、花巻市大迫の早池峰神社蘇民祭は3月17日に行われた。年度末でもあり各種の総会もあったが委任状で失礼して、通いなれた大迫、岳の早池峰神社を目指した。
 この道は60数年も前から早池峰山へと通い続けた。車で1時間と少し、早池峰登山も気軽に行けることから50、100回ではないくらい登っている。
 神楽好きな孫のお伴で、早池峰神楽にも随分と通った思い出の道でもある。
 蘇民祭当日、里は暖かな春だったが早池峰ダムは湖面がまだ半分ほど凍ったまま、標高の高い神社付近はさすがにまだまだいっぱいの雪で車から降りるとヒンヤリ。
 総勢40人余りの蘇民祭選手の参加だという、蘇民袋を争って寒さの中、上半身裸、ふんどし一枚の参加者も見える。
 一団には寒さの中、度々冷たい水を浴びさせられて湯気がボーボー立ち上がる。
 時には参道脇の水路に入り込んだり、・・ 激闘1時間余、参道入り口の大鳥居でゴール。
 集団に大きな声で「がんばれ!」と大きな声援を送る小学生くらいの男の子がいた、蘇民祭が好きな子供なんだろう、「将来の蘇民祭は君たちに任せるよ」・・
 久しぶりの蘇民祭を堪能して帰り道はいつもの産直で家族へのお土産は「早池峰ヨーグルト」これは美味い。

 夕方、近所の知人が訪ねてきた。彼は大の蘇民祭通、今日の蘇民祭では審判を務めていた。
 「今日のお祭りに見えていたから・・」と早池峰神社のお札と蘇民袋に入っていた「こま」を届けてくれた。
  この「こま」は大切なお守りとして大切にされ、争奪戦参加者と関係者のみに渡される。
 昔、この「こま」をもって飲み屋に行けばその日の飲み代は、ただにしてくれたというくらい貴重なお守りである。そんな大切なお守りをいただいた・・・・
 どちらの蘇民祭も後継者難といわれ選手だけにかかわらず準備や運営にかかわる人が少なくなっていると聞くが少々のお祭り形態が変わっても続いてほしい日本のお祭りである。
 

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春、競馬

2024-03-11 16:55:40 | いなか暮し

 村には「馬はかどこ」と呼ばれる場所が何か所かある。馬のお墓である、昔からどこの家でも馬は大事な家族として大切に飼われ、戦時中は軍馬として育成されてお国のために役立ったとか。
 大切な家族の一員とされた馬は、亡くなれば立派な墓石を立て、お盆には人間と一緒の供養するのが今でも当然とされている。

 子供のにぎり拳ほどの”あんこ玉”をたっぷりのお餅でくるんだ大きな大きな彼岸まんじゅう、村には何かの大きさに驚いたとき「彼岸まんじゅうのようだ」という言葉があるから我が家独特の大きさではなかったんだろう。
 母の作った彼岸まんじゅうを風呂敷に包んで北上川渡舟場に向かう。渡舟場はかって時の幕府の巡見使が花巻の鳥谷ヶ崎城へ向かう要所だったと言われている。
 桑畑や麦畑が広がり、松林や、カブトムシのいっぱいいるサイカチの木があって広い広い渡舟場付近は子供にも人気の川原。今日は一帯を利用しての「村の春競馬」の日。
 当時、何人かは競馬用の馬の調教をしていたが多くは農耕用の馬である。普段、田や畑に駆り出される馬や、中には、そりや馬車を引く大きな馬も参加しての競馬・・・素直に言うことを聞く馬や牛はすっかり調教されていたんだろう。
 競馬の日、普段、慣れぬ背中に主人を乗せての競馬、1,2位は到着したのに次の馬はまだ遠くの山陰でぐずっているとか、コースを間違えたとか、見てる方は大笑い、楽しいのは乗馬ならぬ、乗牛、その頃から買い始められていた牛に乗っての競争、馬と違って牛の背中には乗らずに牛の後方、後足付近に乗って走らせるから騎手は大揺れに揺れて落ちないように必死に手綱を持つが振り落とされる、それを見ては観客は大笑い・・・・それでもケガをしたという話も聞かなかったと思う。
 風呂敷包みの「彼岸まんじゅう」を食べながら楽しい春の一日だった。
 大人は間もなく始まる激しい農作業を前にしての楽しい一日だったに違いない。
   穏やかな楽しい、春の一日 昭和の22,23年ごろの出来事だったように思う。
        郷に今は、馬も牛も一頭もいない。

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「大先輩」の教え

2024-03-02 14:33:43 | いなか暮し

日暮れ近くなってから、いつもの散歩に出かけた。東の空にびっくりするほど大きなお月さんが・・

  そろそろだろうとは思っていたが、岩手県の男性の平均寿命に達するのは目前に迫っていた。
 元気で平均寿命に達することはやはり目出度いことだろう。
 生まれてこの方、凡そ平均に達したことは少ない。
 勉強学業、凡そ平均並み、もしくは少し下、スポーツ運動・・苦手、仕事の成果、平均以下、カラオケ下手くそ音痴、平均に達したのは長生きだけ、だが残りの人生大切に生きよう。とは思うが。

 同じ集落に住む大先輩のおばあちゃんは、もうすぐ100歳を迎える。早世した長男は良い飲み友達だった。
 長男を亡くしてからは大きな家に一人で住んでいる。訪ねると「良く来てくれた・・」とニコニコ笑顔で出迎えてくれる。
 台所に立ってお茶の準備を始めるから「いいから・・」と言っても「台所とこたつの往復は良い運動になるから・・」と、こたつに入ると新聞が大きく広がっている「新聞だけは見ないと世の中の事を知らないでいるから・・・」と新聞は休まずに取っていると。
 お話し好きな、おばあちゃんは次から次へとお話が続く、時には前にも聞いたこともあるお話も・・・
「お嫁に来た頃はまだ電灯が点いていなかったのにお姑さんや旦那さんが働き者で大きな家を建ててもらった・・」
長男は早世したけど「10㌔も離れた所に住む次男夫妻がごはんのおかずを届けてくれるの、嫁さんもとっても優しくてね」
 近所の人は「私の食べるお米をくれるの・・」3日に一回は顔を出して「元気か」と言ってくれる。「私をおふくろと思って孝行してくれているようだ」と・・
 民生委員の人も、とてもいい人で「この間、雪が降ったら朝早く来て雪かきをしてくれたの・・」
 週に2回のディサービスは一番の楽しみだと、「お昼をいただいて、お風呂にも入れてくれるの・・」
 私を取り巻く人たちは、みんないい人ばかりでおかげで長生きできると、口から出てくる言葉は何回も何回も「私は恵まれている」「運が良い」と感謝の言葉ばかり。

 100才にも近いおばあちゃんに、平均寿命に近づいた今、色々大切なことを教えてもらった。
 帰り道、いい感謝の話を聞いて、気分が爽快になったような、、、おばあちゃんに習って、自分の環境に感謝しよう、結婚後59年支え続けて、その重みに耐えかねて腰の曲がった老妻、懸命に働いてくれる家族、孫たち、近所の人たち・・・老いても目の前には、自分の力を待ってる、たくさんの仕事のある事、感謝しなければと学んだ・・・
 

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