
映画かと思ったら、全6回のWOWOWドラマだった。
先週土曜日、丸1日かけて全回視聴。
これは映画の2時間では表現しきれない。
確かに全6回にした意味があるドラマだと思った。
以前東野圭吾さんの原作小説も読んでいたが、
このドラマはまた別物。
東野さんの小説はすべて読み応えある作品ばかりなのだが
小説を読んだ時以上のインプレッションがこのドラマにはあった。
長い時間はかかるけれども、もう一度見返したい作品だ。
一番秀逸と感じたことは「片想い」というタイトルのつけかた。
原作以上にそれが胸に迫ってくる。
トランスジェンダーに悩む人たちが感じているであろう哀しみも。
私はシスジェンダーでヘテロセクシュアルとカテゴライズされるが、
でもこんなカテゴリーって必要なのだろうか。
性自認も、性的嗜好も、くっきり線引きできるわけではない。
事実シスジェンダーである私だって
「もし女性ならこんな格好してみたい」と思うことだってある。
なんなら「ほんの1日だけ女性になってみたい」とすら思うこともある。
女性作家の私小説を読み、女性目線で社会を見るという
疑似体験もたいへん興味あることだ。
一般的にLGBTsといわれる人たちだって同じだと思う。
バイセクシュアルの人もいるのだから。
とはいえ現代社会においては「男」「女」というカテゴリーが幅を利かせ
当てはまらない人たちはそのギャップに悩むことになる。
要は「LGBTsの人たちの問題」ではなく「社会構造や価値観の問題」
ではないかと思うのだ。
人はひとりひとり趣味や嗜好、価値観、考え方、顔かたちも違う。
それは「個性」として認識されている。
性自認や性的嗜好だって「個性」ではないのか?
ひとりの人間が「男・女」であり「夫・妻」であり「父・母」であるように
「自分の体と自認の性が違う」あるいは「同性が好きな」
ただの一人の人間であるということも同じことではないのか?
ドラマの中で「男や女ではない『私』」という感じのセリフが出てくるが
社会的にも「私」で良くないか?
そしてそれは、一般的にいわれる、いわゆる「障がい」だって同じこと。
歩けない人がいても、それは単なる個性だろう。
私だって鳥と違って空は飛べない。
「社会」というものが「多数の人間が共生・共存するための仕組み」なら
様々な個性が共生・共存できるべきであり
逆に言うとそれなしに「社会」というものはあり得ない。
もし一定のモノサシからはみ出している人を排除するような社会なら
それはもはや「社会」とは呼べない。
原作よりこのドラマの方がインプレッションが強かったというのは
主演の中谷美紀さんの演技によるところが大きいが、
それと同時に「中尾」の存在が際立っていた。
と書くと原作をまるで腐しているようだが、決してそうではない。
こんなストーリーを書ける東野さんがすごい。