*ノゾエ征爾作 生田みゆき演出 公式サイトはこちら 信濃町・文学座アトリエ 21日まで
ちょうど1年前、文学座有志による自主企画公演、久保田万太郎作『霙ふる』において、演出の生田みゆきは大胆な切り口と細やかな情感のこもった舞台を構築した。夏目漱石の『夢十夜』に想を得てノゾエ征爾が書き下ろした作品と、どのような交わりを見せるのか。
客席が左右から演技エリアを挟む対面式だ。舞台にはみごとなまでに何もない。天井から2枚の大きなパネルが吊り下がり、本作のモチーフの動画が蠢く。
3つのエピソードが代わるがわる進んでいく。まずは老いた童話作家の家に押しかけてきた彼のファンであると言う若い女性、つぎはどこかの共同住宅で、訳あって自室に入れなくなった女性と、別の部屋に荷物の配達に訪れた男性、あと1秒後に死ぬ運命の男性が、過去に出会った女性との時間をさかのぼって追体験する話。これらのエピソードや人物がやがて近づいてひとつの物語に収れんしていく、と想像したが、なかなか一筋縄ではいかない。俳優はドアのサイズの枠を持って移動し、空間や時間が動かしていく。まさに自由自在。
エピソードの一つひとつは面白く、ベテランから中堅、若手に至るまできちんと稽古を重ねた台詞や動きを見せるので、劇の進行は極めて不安定というか、あまり先が読めないにも関わらず安定感がある。もしかすると、この安定感が曲者なのかもしれない。話を追うことや、複数のエピソードの人物の相関関係を想像することをいつのまにかしなくなり、結果として舞台への集中が次第に緩んでしまったのである。休憩なしの2時間10分は、果たして必要な時間なのか。
物語が起承転結をきちんと押さえてまとまらねばならない必要はないのだが、童話作家と配達員との関係に若干の劇的希望を持っていただけに、最後の場面において、登場人物の口から(つまり劇作家自身と考えてよいだろう)、この物語の総括的な台詞がつぶやかれてしまうと、客席に身を置いた者としては非常に残念なのである。生田みゆきが持つ音楽的舞台感覚、どんな音楽、音響効果を使うかではなく、台詞が客席にどう届くのか、舞台ぜんたいのテンポやリズムについて、変容の余地があると思われた。
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