*ハロルド・ピンター作 喜志哲雄翻訳 赤井康弘構成・演出 公式サイトはこちら サブテレニアン 25日で終了
ハロルド・ピンターの短編戯曲『家族の声』、『いわばアラスカ』、『ヴィクトリア駅』の3本を同時上演する。サブテレニアンの黒い空間がいっそう濃密に変容する100分の至福を体験した。以下上演順に。
◆「ヴィクトリア駅」
タクシーの指令係が無線で274号に乗車するドライバーを呼ぶが、「そちらはどなた?」と返され、両者の会話は最初から噛み合わない。指令係はこれからヴィクトリア駅に向い、クックフィールドまで行くという上客を乗せるように命じる。運転手はヴィクトリア駅を知らないと言う。耳を疑う指令係。このやりとりを、「おかしいな」と感じるためには、「ロンドンのタクシー運転手がヴィクトリア駅を知らないなどというのはありえない」(喜志哲雄著「劇作家ハロルド・ピンターの世界」より)という知識をあらかじめ持っておく必要があるだろう。しかし仮にここで異変に気づかなくとも、続く会話がことごとくちぐはぐになるため、初見であってもだいじょうぶではないか。
このあたりの塩梅は、観客が敢えて「自分をまったく予備知識がない状態に置き変える」というやや複雑な準備をした上で観劇に臨む挑戦を行ってみるのも一興であろう。
舞台奥に、指令係(山本啓介)と運転手(海老原恒和)が並んで腰かけ、会話が進む。ふたりは異なる場所にいるから顔を見合わせることはしない。指令係は上司、企業、そして社会の顔をして、常識的な存在のしかたをしている。それに対し、運転手は理由はわからないがすでに何らかの異常をきたしている。運転手のあまりにとんちんかんなもの言いに最初は戸惑い、粘り強く説得したものの怒りを爆発させた指令係は、やがて全てを受けとめたかのように、そこにそのままいるように指示し、「動くんじゃないよ。そこにじっとしてるんだよ。すぐに行くからね」とまるで迷い子になった生徒を迎えにいく教師のように語りかける。
運転手にどんな背景や事情があったのかは最後までわからない。不思議なのは、「どうして彼はこうなったのか?」を知りたいとはほとんど思わないことだ。何らかの原因、きっかけがあるからこんな言動になる・・・といった道筋とは別のところに本作の魅力があると思われる。
◆「いわばアラスカ」
デボラ(葉月結子)は16歳のとき、突然からだが動かなくなり、そのまま29年間眠りつづけ、医師のホーンビー(山本啓介)の投薬によってようやく目ざめた。心は十代の少女のまま、肉体は40代なかばの中年であるアンバランスを理解できず、いらだち、混乱するデボラと、ホーンビー、彼の妻になったデボラの妹ポーリーン(川原洋子/劇団桟敷童子)との会話劇である。ホーンビーは「あなたの頭脳は傷ついてはいない。ただ働きをとめただけだ、一時的に移り住んでいたんだ・・・いわばアラスカのようなところに」と言う。タイトルはこの台詞である。「アラスカ」という場所がなぜこの台詞に登場するのか、何らかの意味合いや、何かの暗喩かどうかは不明である。しかしなぜか「アラスカ」はほかの地名と置き換えられるようで、案外と合っている。本作のベースとなったというオリヴァ―・サックス『覚醒』(邦訳題名『レナードの朝』)は、ぜひ読んでみたい。
◆「家族の声」
登場人物が互いに相手への手紙の内容を語りかける形式で進行する。当日リーフレットの配役表には声一、声二、声三と書かれているだけだ。ハヤカワ演劇文庫収録の戯曲には、「声一 若い男 声二 女 声三 男」とあり、関係性まで指定されていない。しかし劇がはじまるとすぐに、都会で暮らす息子(海老原)が母親(葉月)に出す手紙を読んでいることがわかる。下宿の家主の様子など、ごく普通の報告だが、つづく母親の最初の台詞が「なぜ手紙をくれないの?」と結ばれることから、舞台には早くも不穏な空気が漂いはじめる。息子は舞台のあちこちをいささか落ち着きなく動き回りながら台詞を発し、母親は車椅子に座ったままだ。付き添いらしき女性(川原)が少しずつ車椅子の向きを変えながら、届いていないらしい手紙と、手紙が来ないことに対する執拗な愚痴が交錯するいびつな構造を持つ。息子は家主一家から性的愛玩物のような扱いをされはじめ、最後に声三の男の声が聞こえる。彼の父親(山本)の声だ。父親は「おれは死んではいない」と言いながら、「おれは死んでいる」と告げる。
いずれも好きな短編戯曲であり、実際の上演を見る機会が与えられたことは非常に嬉しい。前述のように、サブテレニアンの黒い床や壁が劇世界の闇をいっそう深くし、とくに3本めの「家族の声」では、台詞を発する人物に照明が切り替えられることで両者の絶望的な断絶がいっそう明白になった。これらの短編は、今回のように3本の連続上演『別の場所』として上演することが一般的とのことだ。このタイトルは、実に深い意味を持つ。登場人物の誰もが、いっけんリアルにその場所にいるようで、心象的にはどこかまったく別の場所にいることが考えられる。また本作は場所だけでなく、「別の時間」についての物語であるとも考えられ、さまざまに思考の膨らむ有意義な観劇であった。
ピンターの戯曲はシンプルだ。とくにこの3編は登場人物について性格や背景など、何の指定もない。舞台を作るほうとしては、何の手がかりもなく、途方に暮れるかもしれない。しかし俳優の衣裳や舞台装置、音楽や照明など、いくらでも自由にできるとも言える。俳優の演技にしても、たとえば『ヴィクトリア駅』など、へたな漫才コンビのやりとりのように笑いを取る演技も可能であろう。サイマル演劇団は今回が初見である。戯曲に対して誠実に向き合い、気負うことなく劇世界を提示した。さまざまな試行錯誤があり、辛抱の必要な作業であったと想像するが、それを経たからこその爽快感があったのではないか。
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