*クシシュトフ・キェシロフスキ/クシュシュトフ・ピェシェヴィチ原作 久山宏一翻訳 須貝英上演台本 小川絵梨子/上村聡史演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 4月のA,Bプロ、5月のCプロに続いて、Eプロ(9,10)→Dプロ(7,8)の順に観劇。7月15日まで
★プログラムE
「デカローグ9 ある孤独に関する物語」・・・小川演出
医師から性的不能であると告げられた夫(伊達暁)。魅力的な妻(万里沙)は変わらず自分を愛すると言う。しかし彼女には既に愛人(宮崎秋人)がいた。
夫に宣告する医師は、同じく医師である夫の友人なのだが、彼の造形について、彼が「くそ野郎」であると夫婦ともに認識しているとしても、いささか戯画的である。これは妻の不倫相手の学生についても同じことが言える。また妻が背を向けてから、夫が「もう寝た?」と問いかける場面、帰宅した妻が夫がかけているレコードの音楽に「きれいな音楽」と反応する場面。いずれも間合いが短く、それだけ夫婦のコミュニケーション不全が深刻であることの表れかと考えてみたが、全体的に俳優の声の高さ、張り方、速さをもっと抑制しても良かったのではないか。
「デカローグ10 ある希望に関する物語」・・・小川演出
切手収集家だった父が亡くなった。残された二人の息子たち(兄/石母田史朗、弟/竪山隼太)は、父の膨大な切手コレクションに大変な価値があることを知り、協力して知恵を絞るうち、次第に偏執的になり、互いを疑い始める。
切手収集家だった父が亡くなった。残された二人の息子たち(兄/石母田史朗、弟/竪山隼太)は、父の膨大な切手コレクションに大変な価値があることを知り、協力して知恵を絞るうち、次第に偏執的になり、互いを疑い始める。
10本のうち、もっとも賑やかでコミカルな物語だ。パンクロックシンガーである弟のステージに始まるのだが、これまでの物語の静謐な雰囲気から激変、度肝を抜くオープニングである。残念だったのは、あまりの大音量で歌詞が全くといってよいほど聞き取れなかったことだ。映画シナリオを読み返すと、この歌のタイトルは「十戒の掟を破れ」で、作詞はキェシロフスキであるとのこと。作品の核である十戒に真っ向から挑戦し、作者自身が作品を破壊するかのような激しい歌の歌詞が聞き取れたなら、作品の逆説的なおもしろさをもっと感じることができたのでは?
これまでほんものの動物が登場する舞台を見た記憶はほとんどなく、今回ドーベルマンの「ロキス」がアンダースタディまで備えて登場したときは驚いたが、その効果については疑問が残る。舞台であればこそ、ほんものの犬を出さずに犬の存在を示すことが可能なのではないか。
紆余曲折を経て儲けそこなった兄と弟が別々に購入した切手を並べて苦笑するラストシーンはほろ苦い。神から与えられた戒めを人間はどうしても守れず、的外れなことをしてしまう。それでも生きていく、生きていける、生きていくしかない。10本の締めくくりの物語はタイトルの通り「ある希望に関する物語」であり、キェシロフスキ流「人間賛歌」であろう。
★プログラムD
「デカローグ7 ある告白に関する物語」・・・上村演出
22歳の大学生マイカ(吉田美月喜)は、6歳の妹アニヤ(安田世理/三井絢月のダブルキャスト)を連れて家を出ようとしている。実はアニヤはマイカが16歳のとき、通っていた学校の国語教師ヴォイテック(章平)とのあいだに生まれた娘だった。校長だったマイカの母エヴァ(津田真澄)はスキャンダルを恐れ、アニヤを自分の娘として育てていた。
海辺の小さな産婦人科を舞台に、生まれる命、生まれない命を描いたNHKのドラマ10「透明なゆりかご」(2018年初回放送)で似た設定の回があったことを思い出す。
謹厳な教育者、母としてマイカを抑圧し、アニヤを溺愛するエヴァを演じる津田真澄が台詞の発語、表情、立ち姿や動きなど、すべてに隙が無く、舞台ぜんたいを支配するかのような造形である。マイカがどれほど策を弄して立ち向かおうと、言葉を尽くして訴えても頑として聞き入れない。マイカを出産したことが原因で、それ以後子どもを産めないからだになったエヴァと、母への負い目を抱えて成長したマイカとの確執はあまりに深い。そして自分が有能であるだけに、エヴァが夫のステファン(大滝寛)に満足していないこと、ステファンがマイカを思いやりながら何もできないでいることも、この家族をいっそう難しく、悲しいものにしている。大滝演じるステファンは、妻と娘の感情をすべて受け止め、痛みを堪えているかのようだ。
この物語に呼応する十戒は「盗んではならない」である。エヴァはマイカからアニヤを盗んで自分の娘とし、マイカはアニヤをエヴァから盗み返して自分のものにしようとする。しかし最も多くを盗まれたのは、最も幼いアニヤではないか。母を母として、祖母を祖母として育つはずだった子ども時代を、母と祖母から盗まれたのだから。
「デカローグ8 ある過去に関する物語」・・・上村演出
倫理学を教える大学教授のゾフィア(髙田聖子)の教室に、彼女の著作の英訳者であるエルジュビェタ(岡本玲)が訪れる。ゾフィアの講義と学生たちの活発な意見交換を聴いた彼女は、第二次世界大戦中のポーランドで起こった、あるユダヤ人少女を巡る実話を語り始めた。ゾフィアの顔色が変わる。
髙田聖子の舞台は数えるほどしか観劇していないが、年齢は老境に差し掛かり、からだには相応の衰えが隠せないが、現役の教授として若い学生たちに接するすがたは快活で力強く、エルジュビェタと再会した衝撃、過去への悔恨に苛まれつつも真実から逃げず、さらに歩み出す造形は知的で繊細である。岡本玲を舞台で観るのはおそらく今回が初めてだ。現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」で、弁護士を欺いて裁判を勝ち取る女性を演じた。したたかな悪女と単純に一括りにできない複雑な人物で、何より下品に見えなかったことが記憶に新しい。髙田聖子のゾフィアとのやりとりだけでなく、戦時中に自分を匿おうとしてくれた仕立て職人を訪ねる場面では、ベテランの大滝寛にごく自然に向き合って、好ましい印象であった。これからいろいろな作品で実力を発揮する人だと思う。
冒頭に大写しされる「SIN」の文字は少し主張が強すぎるのではないか。またエヴァのうちに泊まることになったエルジュビェタが部屋に置かれた花束と、たしかキリスト像があったと記憶するが、その前に跪いて祈るとき、彼女が胸元で十字を切ることに違和感を覚えた。彼女はカトリックに改宗したと示すものはなく、ただ祈るすがたで十分ではないだろうか。
年老いた仕立屋は戦争の話はしたくないと頑なに拒否するが、店を出て行ったエルジュビェタを見ながら、「昔の知り合いだ…生きてた」とつぶやく。この台詞は確かに観客を安堵させるが、映画と同じく無言でも良かったと思う。仕立屋の表情と立ち姿から何を読み取るか、いや何も読み取れなくてもよい。台詞で示されないこと、明かされないことを受け止め、答のないことに耐えるのもまた、作品の味わい方のひとつであるだろうから。
いくつかの躓きはあったが、観劇の最後がこの「8」であったことは、そのものずばり「ある希望に関する物語」の「10」であるよりも自分にとって希望であり、まことに佳き締めくくりとなった。
映画を舞台化することについて改めて考える。映画の人々はあくまで自然であり、淡々としている。しかしそれが舞台に乗ると、人物の存在には意味が生じ、圧を生む。それを如実に体現したのが全作品に登場した亀田佳明が扮したさまざまな人物ではないだろうか。所属する文学座だけでなく、多くの舞台に出演して高い評価を得、昨年のNHK朝の連続テレビ小説「らんまん」に出演して広く知られる俳優となった亀田は、台詞が無くとも、いや無いから余計に、舞台に登場しただけで観客は彼に何等かの意味を見出そうとしてしまうためである。
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