因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

青☆組vol.20『星の結び目』

2014-07-09 | 舞台

*吉田小夏作・演出(1,2) 公式サイトはこちら 吉祥寺シアター 9日で終了
 高い天井と奥行きを活かし、舞台美術は非常にシンプルだ。舞台上手がわの手前にひとつ、下手がわ少し奥にひとつ、舞台正面奥にもうひとつ、それぞれ空間があり、それらを通路やゆるい階段を使って人物が出入りする。戦後から南京陥落の時代にさかのぼり、そこから製氷業で財を成した吉永家の繁栄、人々の悲喜こもごもが綴られる。吉永家に女中奉公した梅子(福寿奈央)が進行役となり、俳優はひとりの人物の数十年を演じ継ぐことになる。

 「丁寧」ということばは、もちろん褒めことばである。本作はまことに丁寧に作られている。戯曲の台詞の一つひとつ、俳優の衣裳や髪型や立ちふるまい、舞台美術や照明、音楽にいたるまで、作者の思いのこもった丁寧な舞台である。おろそか、ぞんざいなところがまったくなく、溢れんばかりの愛情を、深い哀惜の念をもって描いており、作者の誠実であること、俳優スタッフともに精魂込めて舞台に向き合ったことが伝わってくる。

 しかしその「丁寧」が、ときに舞台の魅力を弱めてしまいかねないことを、感じざるを得なかった。休憩なしの2時間10分の上演時間がぜったいに必要なものであったか。人物に捨て役はひとつもなく、美しい場面や台詞がそれこそ星や珠のようにちりばめられた舞台である。
 冗長だとは思わないのに、たとえば戦後突然女中の梅子がその手の女になっていることにはさすがに唐突な印象がある。
 当時は極度の混乱期であったから誰に何があっても不思議はなく、いつどのような経緯でそうなったと説明がほしいわけではないが、復員した辰男との再会がいかにも予定調和に思われ、残念である。いや、このふたりが所帯をもち、和菓子屋をはじめたことはほんとうに救われる思いであり、戦争で足が不自由になった夫、人に言えないことで糊口をしのいでいた妻が、いかにして店を構えることができたか、その過程には言いつくせないほどの労苦があったにちがいないが、そこを作者は語っておらず、観客もまたそれを知ることを求めない。

 このあたりのバランスを、客観的に分析して精査し、何を舞台で描くか、どこからを受け手の想像に委ねるかを吟味する必要があったのではなかろうか。

 長女静子役の渋谷はるか(文学座)は、一族の栄枯盛衰を自身の人生に引き受けた女性のすがたを美しく見せる。末娘の八重子は玉の輿の縁談を断って、教師の道を進む。うちで女中の読み書きをみてやる場面では、むかしたくさんいたであろう優しい女先生の風情があり、演じた大西玲子の造形が非常に好ましい。

 このように、俳優一人ひとりに「いいなあ」と思わせられるところがたくさんあって、前述のように舞台に込めた思いの深さがひしひしと感じられるのである。それだけに「惜しい」と思う。

 ハイリンドの多根周作が、長男の甚五郎を演じた。
 事業にも女にもやり手の父からその名を受け継ぎ、たいへんな重圧の中で一家のあるじとなった彼は、まさに悪戦苦闘する。すぐにかんしゃくを起こして妻や使用人をどなりつけるが、終盤では身重の妻を思いやる優しい夫になっており、あいだをすっとばした印象はなきにしもあらずだが、多根は一つひとつの場面をそれぎりではなく、あとに続くことを予感させながら造形しているので、「何で急に優しくなったんだ?」という突っ込みは野暮であり、「優しいだんなさんになって、お嫁さんよかったな」と自然に思えるのである。
 緻密で誠実な役作りの賜物であろう。

 ハイリンド結成以来座長をつとめてきた多根周作は、この舞台をもって俳優活動を休止する。カーテンコールにあらわれた多根を見ていると、不意に胸が迫った。余韻の深い舞台であったから、終演後もしばらくその場にいたかったのだが、こちらの心が乱れそうで、雨の降りはじめた吉祥寺の町を駅に向かって急いだ。

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