因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団1980公演 vol.66『素劇 楢山節考』

2017-10-10 | 舞台

深沢七郎原作 関矢幸雄構成・演出 公式サイトはこちら 両国/シアターχ 15日まで
 その名の通り、1980年に結成された劇団1980の公演を見るのは何と今回がはじめてである。劇団主宰者である藤田傳作・演出の作品を中心に、三味線や太鼓、口三味線に歌を取り入れたオリジナル作品を幅広く取り入れ、演劇鑑賞会や学校公演など日本国内のみならず海外公演も行う。
 なかでも「素劇」(すげき)という独自のスタイルは、日本のレコード歌謡草創期の歌手・佐藤千夜子の生涯を描いた『素劇 あゝ東京行進曲』で高い評価を得た。
 今回の『楢山節考』は昨年2月、下高井戸HTS(非常に小さな劇空間とのこと)で初演された。奇しくも今年は深沢七郎の没後三十年の年にあたり、主人公りんに
阿部壽美子(1,2)を迎え、両国はシアターχにて再演の運びとなったものである。

 さて劇団1980の「素劇」について、さまざまなwebサイトや今回の観劇から、リアルな舞台美術や衣装、メイクなどを取り除き、俳優のからだと黒い箱、白いロープによってさまざまな場所やものを自在に作っては壊し、また新しいものを作りながら観客の想像力を呼び覚まし、より豊かな劇世界を構築する試みであると理解した。
 再演の『楢山節考』も、俳優は全員紺色の作務衣のような衣裳を着て、白いロープを数人で家の形に広げたり、黒い箱を積み上げて山にしたり、飯の場面は茶碗も箸も使わずパントマイムで(しかし椀に入った汁の温かさが伝わる)等々、非常にシンプルな作りである。

 小説の完全戯曲化ということではなく、地の文も俳優が読み上げながら進行する。この形式の効果は、舞台の話の流れが非常にわかりやすくなること、(おそらく)おりん役を除いて、俳優は語り手になったり、村人や動物や植物はじめ森羅万象を次々に演じ継ぐことで、観客の想像力が呼び覚まされ、リアルな映像よりもずっと豊かなものが目の前に広がっていくことにある。

 演劇倶楽部『座』公演の『おたふく』(山本周五郎原作 壌晴彦構成・演出 2006年2月シアターvアカサカ)を思い出す。作り手の心が伝わる温かな舞台だったが、「詠み芝居」の形式という点で、しっくりこないところがいくつかあった。

 1980の素劇は、あのときの「なぜしっくりしないか」という感覚を気持ちよく解消してくれるものであり、俳優が読むこと、動くこと、台詞を発すること、演じることのバランスの取り方が実に巧みで、それがテクニックを超えて、見る者の心に強く訴える力を発していたためと思われる。

 『楢山節考』は、老いた親を山に捨てる、つまり姥捨の話である。おりんは見事なまでに達観し、みずから進んで山へ行こうとするが、その分「捨てる側」である息子の苦悩は壮絶であり、山へ登るにつれて亡骸があちこちに横たわり、鴉(これも俳優が演じる)が増えていく様相の描写はからだが震えるほどであった。

 山へ入ったおりんの頭上に雪が降ったことを、孫娘は「うちのおばあやんは、うんと運がいい」と無邪気に喜び、それまで「早く山へ行ったほうがいい」と言い募っていた孫息子がにわかに打ち萎れ、食い意地の張ったその嫁におりんの形見の綿入れを着せてやる後添いの妻ら家族の様子を見つめて、悲嘆の極みにあった息子は自分もやがて同じ定めであることを思いつつ、温かな笑顔を取り戻し、出演者全員が祭の歌を歌い、踊りながらの終幕となる。ここに本作の救いと希望があり、陰惨な姥捨物語であるにも関わらず、清々しい心持ちで劇場をあとにできたのである。

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