因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団俳優座特別公演 戦争とは…Vol.29『ボタン穴から見た戦争』

2023-07-11 | 舞台
*スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ原作 三浦みどり翻訳 菅田華絵構成・演出 石塚まみ音楽(作曲・キーボード・歌)公式サイトはこちら 俳優座スタジオ 17日まで
「20代から90代までの俳優たちが紡ぐ、未来への系譜」とチラシにある通り、居並ぶベテラン勢の顔ぶれが素晴らしい。1995年から続いているリーディングシリーズに足を運ぶことも、俳優座スタジオでの観劇もやっとこれが初めてである。俳優座劇場が2025年4月末日で閉館になることは残念でたまらないが、1本1本の舞台を大切に受け止め、考えよう。
 
 劇場右手のドアからエレベーターに乗り、5階にあるのが俳優座スタジオ(稽古場)である。思ったより天井が高いこともあって開放感がある。長い年月、たくさんの俳優、スタッフがここで舞台作りに勤しんできたことが肌で感じ取れる親密な空間だ。舞台に作られたのは家の居間だろうか。壁や窓は爆撃で半分崩壊しているが、取れかかった薄布のカーテンや古いソファなどには生活の温もりが残っており、戦争のさなかにあって尚生き抜いていく人々の息づかいが伝わる。

 1941年にナチス・ドイツに侵攻されたソ連の白ロシア(ベラルーシ)において多くの人々が虐殺された。ノーベル文学賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの原作は、その40年後、当時15歳以下の子どもだった101人の証言を集めたものである。『戦争は女の顔をしていない』はNHK・Eテレ「100分de名著」で紹介されていたが、本作はそれに続く代表作だ。

 今回の舞台は101人の証言を舞台作品として構成したもの。冒頭、アレクシエーヴィチ(松本潤子)が登場し、原作の「はじめに」の章を語る。子どもは当時のことを鮮烈に記憶しており、40年の年月を経てなお深い傷跡であり、複雑なものになっていることを訴え、子ども時代を二度と再び「戦争中」と呼ばないために何をすべきかを問いかける。

 舞台では13の証言が語られる。裾が薄いグリーンに染められた白く長い上着を纏って登場する俳優はベテランから中堅、若手まで総勢14名。そのなかでも、まさに子ども時代が戦争中だった岩崎加根子、中村たつ、阿部百合子のすがたには背筋が伸びる。後輩たちはごく自然に腕を添え、足元に気を配りながら入退場を支える。台本を広げるところもごく一部にあったが観る側にとって妨げには全くならない。

 原作には101人の言葉がぎっしりと詰まっている。その中からどの言葉を選択し、どのように構成してひとつの舞台にするか。

 舞台は休憩無しの2時間弱、13の証言が次々と語られてゆく。舞台上方に証言のタイトルと証言者の名前、現在の職業が映写される(例「お母さんは叫んだんです。『これはあたしの娘じゃないよ!』ファイナ・リュツコ 映画関係勤務)。必ずしも一人語りではなく、複数の人の会話になる場面もあり、俳優にも動きがあるのだが、一つひとつの証言が物語的に連なってはいないこともあり、観る側の態勢として次第に集中しづらくなった。

 終幕は「野原の紅いカテリーナ」の大合唱で締めくくる。この歌は1875年の発表以来現在に至るまでウクライナのプロテストソングとして愛唱されているものとのこと。哀調を帯びた歌い出しから、次第に力強く変容していくところなど、魅力な歌であると思う。しかしながら手拍子を促されているようなところもあり、違和感を持った。

 出演者全員が「子どもたちから子供時代を奪わないために」という台詞を手話で少しずつ、やがて揃って訴える場面にも共感より先に困惑してしまい、この感覚はなぜ、どこから来るのだろう。直球過ぎるからだろうか。原作者の主張が明確で力強いだけに、その言葉を俳優の声と肉体でどう転化するか、そして客席がそれをどう感じ取るかについて、考えてみたい。
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