
*ウィリアム・シェイクスピア原作 小田島雄志訳 鵜山仁演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 7日まで
舞台には演技エリアを囲むように、大中小の白い額縁が置かれている。劇世界に奥行を生むと同時に、複数の世界が入り乱れ、劇中劇など入れ子式の構造を示すものか(舞台美術・乗峯雅寛)。奥にはドラムなどの楽器が置かれ、音楽担当の芳垣安洋と高良久美子が生演奏を行う。人間界は白を基調としたシンプルな衣装(原まさみ)、声を張り上げることなく、台詞をきちんと聴かせるところに文学座らしい安定感があり、よき導入である。
今回の特徴のひとつは、アテネの職人たちが妖精役を兼ねるところだ。ベテランの今村俊一、横山祥二、大原康裕、石川武を軸に、中堅の清水圭吾はまとめ役の大工クインス役だが、先輩方に手を焼くところがおもしろく、5月のアトリエ公演『地獄のオルフェウス』から連投の若手小谷俊輔は板垣李光人ばりの美少年ぶりで、劇中劇のヒロインを演じる。稽古も本番も、一生懸命やればやるほどふざけているようにしか見えない劇中劇に加え、ベテラン勢がポップで可愛らしい妖精の衣装で飛び跳ねるのである。観劇前は失礼にも「老骨に鞭打つ痛ましさ」を見せるのかと想像したが、人間の若者たちの大騒動との対比、舞台のメリハリとして効果を上げたと思われる。
ヒポリタと妖精の女王タイテーニア二役の吉野実紗が魅力的だ。前者では公爵(石橋徹郎 オーペロンと二役)との結婚に乗り気でない憂鬱な表情を隠さない(ちゃんと理由がある)が、後者では惚れ薬のために、ロバ頭にされてしまった肉屋のボトム(横山祥二)に一目でぞっこん参ってしまうたっぷりの芝居であるが、あざとさやくどさがなく、自然で伸び伸びと気持ちがよい。歌唱も堂々たる貫禄で、大いに聴かせる。その吉野の押し出しの強さを横山が柔軟に受け止め、横山もまた見事な歌唱を披露し、今回の見せ場のひとつとなった。吉野を見て、これは『三人姉妹』のナターシャだと閃いたが、2012年冬の公演において、まさにナターシャを演じていた(ダブルキャスト)!
さて本作の主筋は二組の若者たち(平体まひろ&池田倫太朗、渡邉真砂珠&奥田一平)の恋の迷走で、そこに妖精の王と女王夫婦の仲たがいが絡んで展開する。そこまででも相当なボリュームがあり、職人の一人がロバ頭になって彼らを混乱させたり、さらに最後に披露する劇中劇はなぜ必要なのか。今回の舞台を観て、ずっと抱いていた疑問に対するひとつの手応えを得た。
それは、『夏の夜の夢』は、人間と妖精が繰り広げる恋の混乱劇に示したシェイクスピアの演劇論ではないかということである。日々汗を流して働く職人たちが「初めて記憶力を使って芝居を作った」、「何の取り柄もない芝居」等々、あまりといえばあまりな言われようの劇中劇がそれである。観る気がしないとまで言うヒポリタを、「何とかして見届けてやろう」というシーシュアスのとりなしは観客の意見を代弁するものであり、演劇鑑賞の心構え、手引きであり、作り手に対する大いなる励ましとも言える。究極の素人芝居を、堂々たるプロであり、しかもベテラン俳優方が演じることには、作品と演じ手の距離感、敢えて拙く見せることによって生じる演技の客観性がある。400年前の劇作家や俳優たちが、観客からつまらないと罵倒され、無視され、興行的にも失敗しながら日々芝居を続けたこと、古今東西の演劇にかかわる人々が、心の底に秘めた不屈の闘志が、この劇中劇には込められているのではないだろうか。
終幕近く、元の鞘に収まった二組の若者たちがやや不穏な動きをする場面がある。互いの愛を確認したとは言え、移ろいがちな若い心の様相を見せたのか。明確な意図や効果の手応えはないが、大盛り上がりの大団円をふと冷めた目でみつめる作り手の視点があり、興味深い。昨年の収穫として、明治大学シェイクスピアプロジェクトのラボ公演『短夜、夢ふたつ』があるが、これはまさに『夏の夜の夢』のその後を描いた作品で、何度も観劇している演目であっても、まだまだ余白や奥行があることを今夜もまた実感した。
子どもたちの恋の迷走に手を焼く父親イージーアスと、彼らを翻弄する妖精パックは中村彰男の二役である。二役の旨み的な部分を敢えて匂わせず、さらりとした造形だ。パックはいたずら好きで失敗ばかりしているが、実は利口で、「わざと間違えてないか?」と思わせる演技は少なくない。中村パックは飄々と悪びれず、とくに前半の仕事ぶりはかなり適当で、惚れ薬の失敗が大混乱にオーペロンが本気で怒っているそばで、「却っておもしろいじゃありませんか」と喜んでいる辺りがおもしろい。終幕の「われら役者は影法師」の台詞は艶やか。一礼した瞬間に照明が落ちるあたりも、すっきりと潔い幕切れだ。
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