因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

風琴工房20周年記念公演第2弾『国語の時間』

2013-02-23 | 舞台

*小里清作 詩森ろば演出 公式サイトはこちら 座・高円寺1 28日まで(1,2,3,4,5,6,7,89,10,11,12,13,14
 風琴工房が創立20周年を記念しておこなう公演の第2弾であり、日本劇作家協会プログラム「冬の劇場26」のひとつでもある。座・高円寺は基本的に舞台と客席が対面するかたちだが、今回は円形の演技エリアが張り出しており、客席はそこをゆるやかに三方からみるつくりになっている。張り出したエリアは学校の教室で、床下部分もむき出しになっている。開場して上演がはじまるまで、つまびくようなピアノが静かに流れている。このメロディが大変美しい。ざわつく心が鎮まって、これからはじまる物語への期待が高まってゆく。

 公演のチラシや劇団からの案内状によれば、本作は1940年代、大日本帝国の統治下にあった京城(いまのソウル)の小学校を舞台に、朝鮮人でありながら、子どもたちに日本語を「国語」として教える教師たちの物語だ。
 これまで岸田國士戯曲賞の最終候補に2度も選ばれながら演劇の世界から遠ざかっていた小里清が、上演のあてもないまま3年以上の年月をかけて戯曲に書きあげた。風琴工房に上演の話を持ちかけてからからさらに2年が経過し、何と足掛け5年を経て上演が実現したというから、劇作家にとってはまさに渾身作であり、演出を担う詩森ろばをはじめ、出演俳優やスタッフの心情はいかばかりであったかと想像する。
 風琴工房の舞台をみるときは単なる気分転換や息抜きではなく、背筋を伸ばして劇場に向かうのだが、今回はいつにもましてその気持ちが強くなった。休憩をはさんで上演時間は3時間とのこと。

 当日リーフレットに但し書きされているとおり、公演パンフレット、とくに上演台本は最初のページを開いただけで本作の重要な部分がわかってしまうため、観劇前にお読みになることはすすめない。劇場をあとにして余韻をかみしめ、反芻しながらゆっくりと味わわれますよう。

 今回目を引くのは、風琴工房には非常にめずらしいタイプの俳優が客演することである。加藤虎之介をはじめてみたのはNHK朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』で、以来昨年の大河ドラマ『平清盛』まで、多くの映像作品に出演している。中村ゆりも同様で、決して主演をはるわけではないがいずれも重要な役柄であり、おおぜい出演している俳優のひとりとして流すことなく、みる者に何らかの印象を残すものがほとんどだ。ただおふたりとも役柄がいささか固定化している傾向もあって、加藤は一筋縄ではいかない癖のある悪人、中村は愛人やお妾さんなどいかにも薄幸の女性のイメージが強い。
 テレビや映画の露出度が高い俳優が、巨大資本の動く大劇場の商業演劇ではなく、いわゆる小劇場系、しかも風琴工房のように非常に地味だが芯のある作り手の舞台作りに参加するには、出演依頼をする側にとっても、こちらの想像もつかない葛藤や困難があったのではないか。

 下北沢のザ・スズナリなどにくらべ、座・高円寺は舞台がひろく、天井も高い。しかも前述のように張り出し舞台になっていて、演技の方向性も重要だ。自分は比較的前方の舞台を正面からみる席だったが、上演がはじまってすぐに違和感をもったのは、俳優がこちらに背を向けたとたん、台詞が聞こえにくくなることである。声の響き方、飛び方がこちらの予想と異なっているのだろうか、非常にとまどい、台詞を聞きとるために意識を集中させる必要が生じた。俳優が声を大きくする、あるいはゆっくり話せば解決するものでもなさそうで、筆者の観劇日は初日の翌日、開幕して2度めの上演であったが、いまはどうなっているのだろうか。

 静かなピアノが基調になるかと予想した音楽が、上演中はヴィヴァルディの『四季』がベースになり、終幕では女性シンガーの力強い歌になったことは、好みの問題ではあるが惜しい気がする。

 日本人とみわけがつかないほど流暢な日本語を話す国語教師を演じた中村ゆりは、折れそうなほど華奢なからだつきに意志の強い表情や明晰な口跡が痛々しいほど美しい。後半になるにしたがってわが身に流れる朝鮮の血を消すために、日本人校長の妾になり、生徒に体罰を加えたりなど、自虐、自傷行為的な言動がはじまるあたりに惹きつけられる。こんなに美しく魅力的な女性がいればメロドラマ的な展開を期待せずにはいられないのだが、加藤が演じた朝鮮総督府の役人に対する思いも最後まで実を結ばず、結論もでない。
(少し調べると、中村さんは韓国籍の方であった。「なるほど」と安易に納得することが憚られ、いろいろな思いがあったこととお察しする)

 3時間という上演時間は、舞台に秘められた謎や投げかけられた問いに対して、観客が答を出すために必要な時間ではないのではないか。ならば何のためにこの長さが必要であったのか。これは決して「長すぎる」というマイナスを言いたいわけではなく、「せめて2時間と少しにすれば、スズナリでも上演できる」という欲もないではないのだが、3時間かけて作り手が伝えようとしたことを受けとめるのに、もう少し考えたいのである。
 その国に暮らす人から言葉をうばい、姓名をうばい、自分の国のそれを暴力的に強要するのはどういうことが、人々の心をどのように傷つけ蝕んでゆくのか。本作はその史実の一端とともに、虐げられた人々の心情が決して単色ではないことを知らしめる役割をもつ。

 昨今きな臭い日本と韓国、朝鮮との関係や、先日観劇した韓国現代戯曲のリーディング、ここ2年夢中になっている大阪の劇団mayの舞台、Kポップや韓流ドラマがあいかわらず隆盛にあって、大阪の鶴橋で行われた排外デモなど、いろいろなことが頭にも心にも押し寄せて、整理がつかない。

 主演の加藤虎ノ介、中村ゆりはじめ、出演者はすべて粒ぞろいの精鋭だ。ひとりひとりが自分の持ち場だけでなく、作品ぜんたいを大切にとらえ、心を合わせて取り組んでいることが伝わる。これだけの力作の公演期間が7日間というのはいかにも短い。劇団運営の事情などまったくわからぬ者の勝手な願いだが、週末を2度はさんで2週間、せめて10日間あれば。

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