因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

Unit航路-ハンロ・釜山民芸総合同公演『韓紅の音(カラクレナイノオト)』

2013-02-24 | 舞台

*金哲義作・演出 公式サイトはこちら 新宿タイニイアリス 24日で終了
 劇団May1,2,3,4,5,6,7)の金哲義と劇団タルオルム1)金民樹、ふたりの劇団主宰によるユニットUnit航路-ハンロ(1)と釜山民芸総の合同公演である。演技エリアを中央に置き、それを客席がりょうほうから挟む形になっている。金哲義は開演前の観客誘導から上演前のアナウンスまで、早くもエンジン全開だ。マダン劇の成り立ちにはじまり、上演中も飲食や写真撮影はOK、「むちゃぶりはしません」と言われたものの、舞台とお客さんがいっしょに遊ぶのがマダン劇。少し引きながら開演を待つ。

 まず『韓紅の音』。ひとりの少女が成長し、結婚して子どもを産み、その子がまた子どもを産む。母と娘三代にわたる家族の歴史、民族の歴史が描かれる90分の物語だ。
 

 祖国から引き裂かれるように日本にやってきた女性が、ことばも習慣も違う国で虐げられながら懸命に生きる。その娘は自分の出自を厭い、職場では母の作ってくれたお弁当(おそらくにんにくや唐辛子のたくさんはいったお菜)をこっそり捨てて昼食を抜き、親しい友人にさえ住む町が知られないよう離れた駅で電車を降りる。いつかこの町を出たい、誰も自分を知らないところへゆきたいと願いながら、在日の青年と恋をする。生まれた娘は朝鮮学校に通い、自分が疎ましく思っていた母(娘からすると祖母)を慕う。自分に対してあまり心を開いてくれない娘への悲しみを、孫むすめがつなぐのである。

 最初の女性を演じる金民樹が抜群の安定感で、娘を演じる卞怜奈、孫むすめの金恵玲を支える。死のまぎわに白いチョゴリで美しく装った母、しかし娘は民族衣装の胸元のリボンの結び方を知らない。孫むすめがかわって結んでやるとき、この世に生きているあいだにじゅうぶん心を開けなかった悲しみが漂い、胸が痛む。
 母娘三代にわたる物語を巧みに構成し、90分でみせる手腕はあいかわらず鮮やかだ。

 劇が終わると座席の移動などを行って、釜山民芸総による民族伝統芸術パフォーマンスがはじまる。これがまた大変な熱気で、最後には観客もいっしょに踊る大団円となった。まさに興奮のるつぼである。客席から踊りに加わる人がつぎつぎにいらして驚いたのだが、不思議なことに子どもは自然に喜んで踊り出しそうなのだが、誘われてもそうとう頑なに拒否している。

 休憩をはさんで終演は夕刻になった。劇とパフォーマンスの合同公演が非常に貴重なものであるのは確かだが、タイニイアリスの客席で、90分の劇に加えて60分の歌と踊りは少々きつい。マダン劇を謳うのであれば、劇をあとひといき長い尺にして劇中にパフォーマンスを盛り込んでみては・・・というのは安易な発想であろうか。

 つい先週、『ハイエナ』をみたときにも思ったことだが、金哲義の作品は強烈な個性や主張を持ったものである。物語の構造や人物の造形にもある一定の形、パターンがあるのだが、またこの手の話かとマンネリに感じたことはただの一度もない。また言いたいこと、伝えたいことを手を変え品を変え・・・という印象をもったこともない。考えてみると、これはすごいことではなかろうか。
 これまで在日韓国人、在日コリアンとひとくくりにとらえていた自分に向かって、金哲義は「在日朝鮮人」という剛速球を投げ込んできた。特殊といえば特殊な世界である。しかし開幕したとたんに引きこまれてしまう。日本と朝鮮の歴史を知らずにかんたんに理解する、察するなどと言えるものではなく、差別の苦しみや葛藤など想像もつかない。しかし誤解を恐れずに言えば、金哲義の劇世界には、自分が無意識に持っていた(のかもしれない)親近感を揺り動かされて、ずっと以前から知っていたかのような幸福な錯覚に陥るのである。

 この感覚は鄭義信の作品では味わったことのないものであり、単なる好みの問題なのか、金哲義作品に、みるものに無意識の普遍性を表出させる働きがあるのではないかと考察中である。

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