*ハロルド・ピンター作 小田島雄志訳『帰郷』より 大橋也寸演出・脚色 公式サイトはこちら
ステージ円 25日まで
田原町のステージ円に来るのはほぼ半年ぶり。偶然だが前回と同じ友人と観劇した。
ロンドンの下町の男所帯が舞台である。リビングの上手には2階への階段が見え、下手は玄関口に通じる。ソファやサイドボード、ステレオなど雑多な家財道具が置いてあるが、中央に瓦礫に埋もれかけた扉が描かれた絵があって、この一家を象徴するものなのか、生活臭を強烈に漂わせながらも、どこか別世界のような不思議な空気を醸し出している。
かつて精肉業をしていた父親は、ソーホーの顔役でもあったらしい。次男はそれを継ぎ、三男は解体屋をしながらボクサー修行をしており、ハイヤー運転手の叔父(父の弟)が同居している。そこへ大学の哲学教授をしている長男が妻を連れて6年ぶりに帰ってくる。
幕あき直前や、場面転換の暗転でライオンの咆哮が聞こえる。いかがわしい男たちの家に謎めいて色香たっぷりの美女がやってくる。「猛獣の檻に投げ込まれた餌だ」とチラシにあるが、そのことを示したものだろうか。
今回の公演の特色は、登場人物が大阪弁を話すところである。新聞記事によれば、演出の大橋也寸は大阪出身で、「下町なまりの強い地域という設定なので、標準語では行儀がよすぎる。うそやののしりなど汚く荒っぽい言葉を生き生きと話せる大阪弁でやろうと考えた」とのことである。結論から言うと、この試みの意図はわかるものの、自分はその効果と手ごたえを得ることができなかった。設定を日本の大阪に変えるのであれば「翻案」ということになるだろうが、チラシや当日リーフレットには本公演の大橋也寸は「脚色・演出」と記されているが、前述の新聞記事には「潤色・演出」となっている。客席側からみると、「大阪弁を話すイギリス人を演じている日本の俳優さん」である。どうにも中途半端だ。逆に大阪弁にすることによって、戯曲の本来の意味や微妙なニュアンス、もしかしたら本質的なものが変容したり、こぼれ落ちて、充分に伝わらないところがあったのではないか。本作には唯一の女性をめぐるいさかいの中に階級や資本主義の問題が織り込まれているそうなのだが、や、申しわけない、自分には到底そこまで感じ取ることはできず、突然地金を出して大阪弁で啖呵をきる妻に呆然とするばかり。この男どもは何?どうして急にこんなことを言うの、するの?女は何者?夫はなぜ止めないの?あまりにわからない。これがピンターの不条理劇というものなのか、いやそれにしても。
終幕、同じようにライオンの咆哮が聞こえ、そこに鞭の音が鋭く響く。猛獣使いがライオンを威嚇しているのだ。檻に投げ込まれた肉塊と思われた女が、実は男どもを支配する図と自分は捉えた。劇場をでて、前回と同じく友人と浅草寺まで歩き、この前と同じ店でしたたかに飲む。明るいうちから飲む酒は何と贅沢なことか。それにしてもどうして大阪弁にしてしまったのだろう。あまりな言い方になるが、そう思えてしかたがないのである。
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