因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座公演『セールスマンの死』

2013-02-27 | 舞台

*アーサー・ミラー作 酒井洋子演出 西川信廣演出 公式サイトはこちら あうるすぽっと 3月5日まで
 文学座で上演される翻訳ものといえばテネシー・ウィリアムズが定番の印象があるとはいえ、本作がアーサー・ミラー初上演ということには正直なところ驚いた。自分が本作と出会ったのは1989年の劇団昴公演で、これまでに3度観劇している。ジョン・ディロンの精緻な演出と、ウィリー・ローマンを演じた久米明、妻リンダ役の新村礼子はじめ、誠実そのものといった俳優陣のすがた、あまりに救いがなく、やりきれない結末にことばを失ったことをいまでも思い出す。いま昴公演の3冊のパンフレットとともに今回の文学座公演パンフレット、倉橋健翻訳の戯曲を読みかえしながら、なぜこの辛い物語を何度でもみたくなるのかを考えている。

 リアリズム劇でありながら、舞台には終始幻想的な空気が漂う。現在と過去が倒錯する構造は物語の説明ではなく、ウィリーの心象(妄想の要素も色濃いが)を残酷にあぶりだす。息子たちがまだ10代のころの場面で、失礼ながら息子役の俳優さんたちの不自然な若づくりが気になっていたのだが、いや不自然が正しいのである。現実の彼らは30歳を過ぎて生きる方向が定まらない。その不安定なところや夢見がちな甘さが、あたかもとってつけたような少年の造形に結びつくのではないか。
 そのなかでウィリーだけが老年のまま過去の空間にまぎれこみ、いっそう痛ましくみえるのである。

 酒井洋子の新訳で気になったことばが少し。「かたす」←「片づける」の意味だとはわかるがぞんざいな語感がある。あとは「セレブ」と「極道」か。いずれも大きな妨げにはならないまでも、耳に障ったのはたしかである。

 たかお鷹はこまつ座や蜷川幸雄演出の舞台におけるコミカルなイメージが強い。いんちきくさい役、助平を(この表記がぴったり)演じたら天下一品だ。しかし今回は遊びや余裕や逃げ場がなく、どんどん追いつめられる役柄である。自分は劇団民藝の滝沢修をみる機会はなかったが、やはりどうしても昴の久米明のイメージが支配する本作において、たかお鷹はゆるぎないウィリー・ローマンとして痛々しいほど強い印象を与えた。まさに当たり役であろう。再演が続くことを、そしてたかお鷹のウィリー、『セールスマンの死』が文学座の財産として次世代に継承されることを強く願う。

 演じつづけられること、それを見つづけること。はじめてみた舞台の印象を少しも損ねることはなく、比較に終始せずに、舞台への思いはいよいよ強く深くなる。作り手と受け手双方に「演劇的義務感」をひしひしと与える数少ない作品であることを確信するからである。また数十年前におけるアメリカの物語であるにも関わらず、現代の日本における今日性が極めて高いことを改めて知った。親子、夫婦、きょうだい、仕事。切り口がたくさんある。重苦しい内容で、気持ちが晴れるようなものではないが、観客に対してさまざまな入口があって、演劇にあまりなじみのない人であっても受け入れられる作品ではないだろうか。

 舞台から受けとったものが多すぎ深すぎて、観劇から数日が過ぎているのにじゅうぶんなことばにならない。このつぎ『セールスマンの死』をみるのはいつになるだろうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Unit航路-ハンロ・釜山民芸総... | トップ | 因幡屋3月のおしばい »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事