晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

資本論ノオト第8回

2009-10-03 09:48:38 | Weblog
「資本論ノオト第8回」

第3節 商品の物神的性格とその秘密

 *(*印は、私のコメント部分です。以下同じ)物神性こそマルクス哲学のワクワクする真髄部分である。ここには、若きマルクスの疎外論が進化した形で見える。そして、この章の歴史的な記述には未来社会を構想する手がかりがある。

 労働生産物が商品形態を帯びるやいなや、人間と人間との関係が、物と物との関係という不思議な、幻影的な形態をとり、逆の関係になって見えてくることから、商品の不思議さ、神秘性が生まれてくる。(商品の物神的性格)

*「人と人との関係が物と物との関係になって見えてくる」とはどういうことなのか。現実における例を想像してみたい。(曲解、短絡、矮小化を許せ!)
私たちは、友人の関係、恋愛関係、親子など家族関係・・など人と人との関係の中で生きている。純粋な心と心の関係と言ってもいいだろう。
しかし、私たちが生活している社会は、これが当たり前と思ってはいるが、一歩外側から見れば不思議な資本主義社会でもある。この社会は、様々な物やサービスが商品化され、金銭が共通価値となっている社会である。   
金銭が絡むと、たとえ親子であっても骨肉の争いに発展する場合もあるように、人と人との関係が壊れてしまうような社会なのである。
やくざ社会は、親分子分の杯、義理と人情の世界であり、その関係を絶つときに「誠意を見せる」とは、小指を差し出すことである。しかし、資本主義社会に生きる近代やくざになるとその誠意は、「金」に変わる。
 私たちが生まれてからずっと生きているこの物神性に覆われた資本主義社会を常識や前提として考える限り物事の捉えや構想は限定的になってしまう。私たちが、オルタナティブな社会を構想する場合、脱資本主義社会をイメージする必要がある。

 物と物との交換を通じて、初めて生産者たちは、社会に飛び出して他の生産者たちと社会的関係を持つようになる。

 マルクスは、「価値なるものの額には、それが何であるかということは書かれていない」(長谷部訳)と表現している。価値とは、抽象的に人間的な労働力の支出である。

 コレクションでは、「だから価値とは何であるのかは、価値の額には書かれてはいない。」となっている。
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