晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『吉本隆明が語る親鸞』 その4

2012-05-02 20:21:33 | Weblog

 札幌が変容しています。札幌駅に大丸百貨店やJRタワーができた以降、大通りまでの地下歩行空間、そして創生川沿いに創生公園ができました。安田侃の彫刻も空間にマッチしています。市電がループ化されるともっと面白くなるでしょう。

 

 第3講『親鸞の転換』(1983.8.21 鹿児島県出水市泉城山・西照寺 第1回緑陰講座「親鸞・不知火よりのことづて」)を聞いて。

 疫病、飢饉、戦争・・ふつうの人にとって生きていくことは苦であった。現世の苦をどうやったら断ち切ることができるか。仏教は、特に浄土教は、こうすると浄土に到達できると教えた。親鸞の時代(1173年~1262年、何と90歳まで生きた。)は、平安時代の末期、源平の戦い、大飢饉、京都大地震、鎌倉時代になり、繰り返される大飢饉と街に溢れる餓死者、鎌倉、関東で大地震が続く希望の見えない時代であった。

 現代の私たちは、阪神大震災、オウム真理教サリン事件、東日本大地震、福島第1原発事故、BSE,鳥インフルエンザ、新型インフルエンザ騒動・・平安末期と情況が共通している。

 仏教の主流は、瞑想を続け、修業を積み戒律を守り、女犯を避け、肉や魚の殺生を避け、修練を重ねると、その果てに浄土の姿を眼前に出現させることができるという。私としてはストイックな日常も悪くないが、親鸞はそれを嘘だと切り捨てる。信じて念仏を称えたら救われる、浄土へ行けるという。

 ただここは、もう少し複雑で、自分を信じて心の底から念仏を十ぺんでも称えれば、称えた人の方から光が射していく方向と、浄土の宿主からの光の志が、どこかで必ず出会う、出会った時に必ず浄土へ行けるというものである。

 私は、この最後のところには信者でないと実感を持つことのできない、信仰の領域に入っていると考える。

コメント
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