晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『私と他者の語りの世界』

2009-08-28 19:59:48 | Weblog
 特急スーパーおおぞら号です。


 『私と他者の語りの世界 精神の生態学へ向けて』(浜田寿美男著 ミネルヴァ書房 2009年刊)

 発達心理学、犯罪心理学を専門としながら、子どもの発達障害や冤罪事件の究明をテーマとして研究を続ける浜田氏の最新作。

 氏は、形成論の視点を提起する。一般的に、障害は形成の結果ではなく、固体内に内在する障害の直接的発現として固定的に捉えられている。形成論の視点を見失った診断、治療、支援は、最終的なところで排除の論理にはまり込む。

 この論理を犯罪にあてはめると、人は犯罪を自分たちとはかけ離れた異人種の引き起こした通常ならありえない出来事のように見てしまいがちである。

 しかし、形成論の視点から見ると、犯罪はすべて私たちの社会の<内>で生み出されているという現実を忘れてはいけない。犯罪がいかにして形成されたのかの解明こそが本題である。

 2004年6月1日に起こった長崎県佐世保市の小学校で、6年生の女の子が同級の女の子を学習室に呼び出し、2人きりになったところをカッターナイフで切りつけて殺すという事件が起こった。

 氏は、この佐世保事件を克明に分析する。子どもの事件は、子ども自身の人格特性や子どもの「内面」の問題にされ、あるいは両親の養育のあり方にされて、子どもが現実におかれた状況や犯罪行動にまでいたった具体的経緯はすっぽりと看過されてしまうことが多い。

 しかし重要なのは形成論の視点であり、女の子がどのような学校の状況のなかにいたのか、そこでどのような人間関係を生きてきてこの事件に至ったかを解明することである。

 近年の犯罪報道を見ると、秋葉原事件など典型的であるが、原因を個人の性格や特性のみに求め、社会や時代の特性などに求めることをしない。
また、少年犯罪においては、その原因を加害者の発達障害に求める例も目立つ。レッサーパンダ事件しかり。そこには、形成論の視点が欠落しており、扇情的な情報を垂れ流す中で、障害=犯罪という図式を作り、そして排除という論理につなげている。



 犯罪報道といえば、酒井法子事件はひどいものがある。あんなクダラナイ事件を1ヶ月も垂れ流している。警察発表の一方的情報を毎日毎日小出しにして、清純派アイドルから一転極悪非道のように描き出している。

 元々、彼女(や柔道家の・・・ちゃん)の出自は皆が知っていること。敢えて、語る必要も無いことである。

 問題なのは、見ていて本当に疲れるバラエティなどテレビ番組の異常なハイテンションではないか、それを求められ普段の自分とは全く違う自分を演じなければならないような環境を分析してほしいものだ。

 
コメント (3)
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